町山智浩の言霊USA 第726回 2024/06/15
Appeal to Heaven(天に訴えよ)
日の丸の旗には上下はないが星条旗は上下逆さまに揚げてはいけない。あえて上下逆に揚げるとSOS(緊急事態発生、救援求む(きゅうえんもとむ))の意味になる。
たとえば映画『告発のとき』(2007年)。イラク戦争から帰還した兵士が陸軍基地で行方不明になった実話(じつわ)を基に映画化。その兵士の父親(トミー・リー・ジョーンズ)が探し求めると、実は息子は戦友(せんゆう)に殺されており、その部隊はイラクで捕虜(ほりょ)への虐待に関与してPTSDを負っていた。意味のない戦争で息子を失った父は国を憂えて(うれ ・ える)、星条旗を逆さまに揚げる。
逆さ(ぎゃくさ)星条旗が今、アメリカで問題になっている。
2021年1月17日、ポトマック川を挟んで首都ワシントンD.C.の対岸の住宅地、バージニア州アレクサンドリアで、連邦最高裁の判事サミュエル・アリートの自宅の庭に逆さ星条旗が掲げられた。掲げたのはアリート判事の妻マーサ・アン。隣人への嫌がらせだった(いやがらせだった)。
その11日前の1月6日、ワシントンD.C.にトランプ大統領(当時)が支持者を集め、これから連邦議会で行われる大統領選挙の結果承認手続きを阻止しろと演説、支持者たちは議会に乱入した。
これは法治国家を破壊する暴挙だ。憤慨したアリート判事の隣人はトランプを罵る(ののしry)看板を庭に置いた。するとアリートの妻マーサがそれを批判して口論になった。なぜ、憲法の番人であるべき最高裁判事の妻が憲法を踏みにじるトランプの側に立ったのか?
その答えは長くなる。まず、サミュエル・アリートは最高裁で最も右寄りの判事と言われている。女性、人種的マイノリティ、LGBTの権利に常に反対し続け、ついに一昨年は、人工中絶の権利を守る最高裁判決を破棄してしまった。
そんなアリートは初めてのアフリカ系大統領オバマを憎んだ。オバマが上院議員時代にアリートの判事承認に反対したのがきっかけらしいが、最初の一般教書演説でオバマが企業の政治献金を認めた最高裁判決を批判すると、アリートはマイクに拾われるほどの声で「違うよ」と毒づき、以降も同席を拒み続けた。アリートは憎しみを隠すことがヘタだった。最高裁判決の発表では、反対意見を述べる他の判事をにらみつける顔がテレビで放送された。
でも、明るく饒舌になることもある。保守系シンクタンクやキリスト教保守団体のイベントに積極的に参加して講演し、キリスト教保守であることを隠さず、その伝統的な価値観を守る決意を高らかに語った。当然、「政教分離を定めた憲法の守り手として不適切では?」と常に批判されてきた。
2016年11月の大統領選挙でトランプが勝利し、4年の任期中に3人の最高裁判事を任命した。判事9人のバランスは保守6人とリベラル3人となり、アリートは片っ端から彼の求める保守的な判決を実現した。
トランプ当選以前にも、2008年7月に、アリートがヘッジファンドの大物で億万長者のポール・シンガーの自家用ジェットで一緒にアラスカにサーモン釣りに行ったことが発覚した。シンガーは共和党支持者で、ドナルド・トランプを支援していた。連邦最高裁判事はもちろん特定の政治的、宗教的勢力からの利益を受けるべきではないが、司法の独立を守るため、最高裁判事を罷免(ひめん)することはできない!
ここで2021年1月、アリート判事の自宅の話に戻る。隣人のトランプ批判に怒ったアリートの妻は庭に星条旗を逆さに掲げた。議会を襲撃したトランプ支持者たちがそうしていたから。隣人は抗議したが、アリート家は星条旗を放置し、2週後に隣人はとうとう警察に通報、旗は片付けられた。
「妻が勝手にやったこと」
しかし、その後、アリートの別荘に別の旗「天に訴えよ(Appeal to Heaven)」も掲げられたことが判明した。「天に訴えよ」はイギリスの思想家ジョン・ロックが1690年に著した言葉。圧政に苦しむ人民は神に訴える権利がある、つまり権力に立ち向かって正義を問う権利があるという、人民の抵抗権、革命権の肯定(こうてい)だ。アメリカでは独立革命の時、英国政府に反乱を起こした植民地軍がこの言葉を書いた旗を掲げた。それを、議会襲撃時のトランプ支持者が振りかざしていたのだ。
たかが旗のことがなぜ、今ごろ問題になったかというと、トランプが扇動した議会襲撃犯たちの裁判が最高裁まで進むと、アリートが裁定することになるから。妻の旗を放置したアリートも議会襲撃を当時から支持していたなら、彼にそれを裁く資格はない。
民主党議員はアリートともうひとり、やはりトランプ支持の億万長者の接待を受けていた保守ゴリゴリの判事クラレンス・トーマスに議会襲撃の裁判の担当から外れるよう求めた。トーマスの妻ジニーも熱烈なトランプ支持者で2020年の大統領選の結果をひっくり返そうと画策していた。
この要求をアリートは突っぱねてこう反論した。「私ではなく、妻が勝手にやったこと。妻はいろんな旗を掲げるのが好きなんだ。逆さの旗は片付けるよう言ったけど妻は従わなかった。自宅は妻と共同所有だから妻には旗を掲げる権利がある。『天に訴えよ』の旗のほうは私は知らない」
「妻が」とか「秘書が」とか、日本の政治家みたいな言い訳だが、トランプはもちろんアリートの返答に「この根性が必要だ!」と大喜び。
と思ったら、トランプが自分とセックスしたポルノ女優を金で口止めし、不正に会計処理した件の裁判で有罪判決が出た。控訴して最高裁まで持っていってアリートたちに無罪にしてもらうのかな?