2024/01/25

第5回 就職、そして結婚|バブル兄弟 高橋治之と高橋治則 

髙橋治則と髙橋治之.png

左: 高橋 治則(たかはし はるのり、1945年(昭和20年)10月9日 - 2005年(平成17年)7月18日)は、日本の実業家。イ・アイ・イ・インターナショナルの社長として、バブル期にはホテル・リゾート開発事業を中心に総資産1兆円超の企業グループを構築し、環太平洋のリゾート王と呼ばれるようになった.

右: 高橋 治之(たかはし はるゆき、1944年(昭和19年)4月6日 - )は、日本の実業家。電通元顧問・専務。株式会社コモンズ代表取締役会長。元東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事。高橋治則(たかはし はるのり)(故人。元イ・アイ・イグループ社長)は実弟。

 1967年5月、東京・築地(つきじ)に、日本を代表する建築家、丹下健三(たんげけんぞう)が設計したコンクリート剥き出しの柱梁(ちゅうりょう)に覆われたスタイリッシュな外観(がいかん)の電通本社ビルが完成した。威圧的な13階建てのビルの側壁(そくへき)からは梁(はり)が飛び出し、短い手足を彷彿とさせた。それは戦後に急成長を遂げた電通が、さらに力強く飛躍する未来を象徴しているかのようでもあった。

 この年、高橋治之は、慶応大学法学部を卒業し、電通に入社した。就職に際しては、NET(現テレビ朝日)に勤めていた父、義治にも相談したが、口添えできる企業として名前が挙がったのは、NETと電通だった。

 治之と同期入社の一人が言う。

「彼は慶応幼稚舎時代からの同級生と揃って電通から内定を貰っていました。内定者は東京モーターショーのアルバイトのクチを紹介して貰えたので、そこで他の同期とも仲良くなるのです。当時は、入社時にあだ名をつけるのが習わしで、彼は学生時代のニックネームのまま“タコ”と呼ばれていた。みんな何らかのコネ入社でしたが、採用の時には、学科試験の成績優秀者から順に面接を受ける形でした。その時点で彼は下位に甘んじていたうえ、入社前の2月になって、卒業に必要な単位が足りないかもしれないと慌てていた。何とかギリギリで卒業証書を貰ってきたものの、結局は新築の東京本社ではなく、大阪支社の新聞雑誌局に配属になったのです」

仲人は慶応塾長夫妻

 当時の電通は、コネ入社が当たり前の世界だった。電通の“中興の祖”と呼ばれた四代目社長の吉田秀雄は、新聞や雑誌など活字媒体が中心だった広告業界にあって、民間のラジオ放送の立ち上げに尽力。その後は、テレビ広告の代理業にも力を入れてメディア全体を掌握し、日本の広告モデルの礎を築いた(きずいた)。彼は南満洲鉄道(満鉄)出身者を重用し、人脈を広げた。そのネットワークは“コネ”によって増強され、電通の強みとなった。

〈仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない〉

〈大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする〉

 吉田は、この言葉に代表される“鬼十則”を電通社員の行動規範として残した。新社屋は吉田の悲願として計画されたものだったが、彼はその完成を見ることなく、63年に亡くなった。

 その後も吉田イズムは脈々と引き継がれ、64年の東京五輪に続く国家プロジェクトとして、70年に大阪で開催されたアジア初の万国博覧会でも、電通は全社をあげて協力体制を組んだ。大阪万博は、電通が73年に売上高で世界最大の広告代理店となる上で、大きな弾みとなった。

 生粋(きっすい)の“慶応ボーイ”だった治之には大阪での生活は肌に合わなかった。だが、東京への異動希望が叶えられることはなく、4年強を大阪で過ごした。

 大阪時代に治之は、かねてから交際していた大阪出身の同級生と結婚している。医師だった彼女の父親は堅物(かたぶつ)で、箱入り(はこいり)娘に見合いを勧めており、それを知った治之が、結婚を急いだのだ。

 彼女は、67年に日本航空がロンドンとニューヨーク間を結んで世界一周線を実現した時、東京青年会議所の“国際親善ミス東京”として宣伝キャンペーンの仕事もこなすなど、華やかな雰囲気を纏った(まとった)女性だった。

 2人の仲人は、慶応義塾の当時の塾長、永沢邦男夫妻。実は、永沢の息子は、治則と幼稚舎時代からの同級生で、高橋家と永沢家には深い結びつきがあった。披露宴は都内で、治之の電通の上司や学生時代の仲間などを招いて盛大に行われた。

 大阪には、慶応の仲間も遊びに訪れ、その縁で貴重な人脈も得た。和歌山県選出の衆院議員、山口喜久一郎の秘書だった中西啓介(なかにし けいすけ)もその一人である。中西は、治之の塾高時代からの親友だった廣瀬篁治(たかはる)の遠縁にあたり、酒席をともにするなかで、関係を深めたという。のちに中西は衆院議員となり、治之の実弟、高橋治則と刎頸(ふんけい)の友となるが、最初の出会いは兄の方だった。

 治之がようやく東京に異動になったのは71年7月。新設されたばかりの「総合開発室」に配属された。この時、治之と同じく大阪支社から次長職として迎えられたのがテレビ企画制作部の幹部だった入江雄三である。入江との邂逅は、治之のその後の人生を決定付けていく。

 関西学院大出身の入江は、ラジオドラマのプロデューサーとして名を売り、大阪万博では笑いの世界をテーマにした「ガスパビリオン」の映像部門をプロデュース。万博後に東京本社に移り、治之の上司となった。

 総合開発室はニューメディアの研究というテーマを掲げ、電通の未来戦略を練る部署とされたが、芳しい結果は得られず、「開発事業局」として再スタートを切った。75年、局長に就任した入江は、スポーツイベントという新たな“鉱脈”を引き当て、その後、専務まで上った。

 電通ОBの一人は、「入江さんは非常にバランスのとれた人で、人望もあった。タコは彼に可愛がられたことで頭角を現していった」と明かす。

「電通社内で海外研修員試験を受けた時のことです。今はなくなった制度ですが、試験に合格すると1年間会社丸抱えで海外に行けるため、希望者も多く、私や彼の仲間も受験していました。国際問題などに関する学科と英語の試験、さらに論文と面接があった。その時に、事前に彼から『中東やイスラム教に関する問題が出る』と聞かされたのですが、それは出題者だった入江さんが彼に教えてくれたと聞きました。実際の試験では、予告通りその問題が出ましたね」

 驚いて理由を尋ねる仲間に治之は、「お酒を飲ませたんだよ」と答えたという。彼はキーマンを見つけ、その懐に飛び込む術を20代ですでに身に着けていたのだ。 「これは儲かるよ」

 一方、治則は慶応大を68年に卒業し、当時は半官半民だった日本航空に入社。そこには母、朝子の従兄で、前年の11月まで運輸相を務めていた大橋武夫の強力なコネがあったとされる。

 治則とは慶応普通部時代からの友人で、日航に同期入社した中江和彦が語る。

「慶応の同級生のなかでは、政治家一族に育った小坂憲次も同期入社です。私はとくに政治との繋がりがあった訳ではないので、就職活動の段階では治則君が日本航空を受けていることも知らなかった。入社が決まったら彼がいて、向こうも『何だ、お前も入ったのか』という感じで。日本航空の場合、最初はほとんどの新入社員が空港や営業の現場に配属されます。彼も羽田空港の昔の古いターミナルで、国際旅客課の一員として顧客対応にあたり、外国人とも英語でやり取りをしていました」

 当初から何事にも物怖じしないタイプだったが、マイペースな仕事ぶりは新人らしからぬ醒めた印象を周囲に与えた。

「サラリーマンは偉いよな」

 それが口癖で、社内での出世には端から関心がない様子だった。

 前出の中江が当時を振り返る。

「熱心に仕事をする訳ではないけれど、同期の中心には常に彼がいた。『今日はビールでも飲みながら歌でも唄おうか』と声を掛ければ、そこにみんな集まる。面倒見はいいし、彼の人柄を知ると、不思議とサポートしてあげたくなるんです。会社の女性も、彼がやらなければいけない仕事をカバーし、現場のシフトまでフォローしてあげていた。その間、本人はのんびり新聞なんかを読んでいるんです。どこか我々とは違う世界にいて、時間潰しでもしているんじゃないかと思うところがありました」

 それでいて、中江には、「政治の方に行くかもしれない。米国の大統領という訳にはいかないが、日本なら総理大臣かな」と話し、野心を覗かせることもあった。

「私はその後、ニューヨーク支店に実習生として赴任したのですが、後任として派遣されたのが彼でした。『お前、よく来れたな』と声を掛けると、『まぁな』と相変わらず淡々とした感じでした。時には私の狭いアパートまで足を運んで、髪の毛を器用に切ってくれました」

 治則は、現地での仕事は地元のスタッフに任せきりで、「米国の民主共和制が面白いから、これから勉強する。将来のためにニューヨーク州立大学に行こうと思っている」と言い出し、ニューヨークからあちこちに手紙を書いていたという。

 さらに、中江を驚かせたのは、日航の業務の傍ら、米国で調達した骨董品を次から次へと日本に送っていたことだった。その理由を治則はこう説明していた。

「骨董品というのは、100年を過ぎたら税金が掛からないんだ。米国は歴史が浅いから、欧州から来た100年を超える骨董品でもそんなに高くない。これは儲かるよ」

 治則はサラリーマンの枠を軽々と超え、気儘に副業ビジネスに勤しんだ。海外勤務で気が大きくなっていた訳ではなく、商売の資質は生来のものだった。中江にとって彼の飄々とした印象は、後年になっても変わることはなかった。

 治則はその後、独立し、「イ・アイ・イ」グループを率いて大金を稼ぐようになってからも同期の飲み会には顔を出し、二次会のクラブにも付き合った。だが、彼が羽目を外すことはなかった。隅の方で黙ってチビチビと酒を飲み、好物の不二家のミルキーを舐めながらみんなの話を聞くのだという。そして、いざ支払いの時になると、仲間からこう声が掛かる。

「頼むよ」

 すると治則は、恩着せがましいことは一切口にせず、「分かった」とだけ言って会計を済ませるのだ。そのやり取りを目の当たりにした店のホステスは、「彼が全部払うの?」と驚いた表情を見せていたという。

 捉えどころのない治則は、終身雇用制度の庇護の下に甘んじている大企業の社員のなかでは明らかに異端の存在だった。その治則が日航時代に心を許した数少ない先輩社員の一人が、同じ国際旅客課にいた河西宏和である。

 河西もまた日航での仕事に飽き足らず、「近い将来、事業をやりたい」と考えていた。独立志向がある2人は意気投合し、その後は長年にわたるビジネスパートナーとなった。

 河西は慶応大の5年先輩で、山梨県の「甲州財閥」の一翼を担う華麗なる一族の出身だった。祖父は、衆院議員や貴族院議員を務め、東京電燈(現東京電力)副社長や関東瓦斯(現東京ガス)社長を歴任した実業家。そして父親も、山梨交通社長や山梨中央銀行の取締役を務めた。河西は、甲州財閥の人脈に通じる日本開発銀行(現日本政策投資銀行)の初代総裁、小林中の強力なコネでほぼ無試験で日航に入社していた。

 治則は、気心が知れた河西の前では素直に心情を吐露した。

「今までで、こんなにがっかりした日はない」

 69年の冬、治則はいつになく落ち込んだ表情でこう打ち明けたという。

 理由を尋ねると、NETに勤める父、義治の知人の娘が慶応大を受験し、不合格になったという。当時の塾長は、兄の仲人である永沢邦男だったが、彼の後押しを以てしても、彼女を慶応大に押し込むことができなかったのだ。

 それは、“北海道の政商”と呼ばれた岩澤靖(おさむ)の次女、滋(しげり)だった。 高橋家と岩澤家の関係

 幾多の伝説に彩られた岩澤靖は、まさに“立志伝中の人物”だった。

 香川県出身の岩澤は、明治大学を卒業し、終戦後にリュックサック一つで北海道に渡り、48年に29歳で「金星自動車」を設立。外国車の電気自動車5台から始めたタクシー事業が大当たりし、自動車販売の「札幌トヨペット」や「北海道テレビ放送」(以下、HTB)や「札幌大学」など次々と新しい分野に進出した。そして51企業を傘下に持つ岩澤コンツェルンを作り上げ、グループの総帥として君臨していた。

 岩澤が手掛けたビジネスは、いずれも許認可事業のため、政治家や官僚とのパイプは欠かせない。そこで岩澤は中央政界の太いタニマチとなり、札束で政治家を手懐けた。それが“政商”と呼ばれる所以だった。 数多くの企業を率いた岩澤靖(1967年撮影=朝日新聞社)

 そもそも高橋家と岩澤家との関係は、当時NETの技術局長だった義治から始まっている。

 1960年代後半、テレビ業界は過渡期を迎えていた。それまでVHF(超短波)に限られていた周波数では、国内で約80%の視聴をカバーできるが、難視区域が残る。その対策として新たにUHF(極超短波)帯の周波数の導入方針が決まり、各地域から追加のチャンネル割当てを求める申請が出された。一方、民放キー局は、ネットワーク拡大のため新設局を取り込んで系列化を推し進めた。

 そうしたなか、北海道で初めてのUHFの民放局として誕生したのが、68年11月に本放送を開始した北海道のHTBだった。

 当時を知るHTB関係者が語る。

「札幌地区では6社が手をあげており、67年5月に最後発の7社目として申請を出したのが、岩澤さんの『道民放送』でした。フジテレビから電波のプロをスカウトし、北海道選出で、岸信介元首相と東大同期だった実力者、南条徳男元建設相の助言を貰っていた。その後、7社を一本化する案が浮上し、異論はあったものの、社長には岩澤さんが就任しました。そこからはキー局に選定されたNETの全面協力を得て、開局に向けて邁進していったのです」

 その時、NETの新局開設を担当していたのが、義治だ。テレビ事業への進出を機に本格的に東京進出を図りたい素人同然の岩澤にとって、義治は頼りになる相談相手となった。

 開局に向けた難題の一つがコンバータ(周波数変換器)の普及問題だった。UHFの電波を受信するには、市販のテレビに専用コンバータをつける必要があったが、大手メーカーが製造する全チャンネル対応の機種はコストが1万円前後と割高で、普及が見込めない。

 そこで義治の協力を得て、HTBだけの単チャンネルのコンバータを古河電工と組んで開発。「SIコンバータ」(SIはシングル・イワサワの略)と名付けて価格を抑え、2700円で売り出すのだ。当時を知る古河電工の元幹部は、「技術的には何ら新規性はなかったが、担当部長がかなり前のめりになり、岩澤さんと野心的な契約を結んだ」と話す。

 岩澤は札幌トヨペットに営業の前線基地として普及本部を設置。岩澤グループの組織を総動員してコンバータを売りまくり、北海道は全国有数の普及率を誇るまでになった。岩澤は莫大な利益を得て、開局後のHTBは順調なスタートを切った。

 義治もその功績で、68年11月、NETの取締役に昇格。翌年5月には、岩澤も系列局のトップとしてNETの取締役に名を連ねた。2人は、当時のNETで頭角を現し、のちに専務となった朝日新聞出身の三浦甲子二とも関係を深め、さらに人脈を広げていく。 薔薇の花束を手に

 その頃、世田谷区の高橋邸に、岩澤の名代として付け届けを持って姿を見せていたのが、慶応大の受験に失敗し、青学大に通う岩澤の次女、滋だった。北海道から東京に居を移していた彼女は、見違えるほど垢抜けた印象で、対応した義治の妻も驚くほどだったという。

 治則が彼女に熱を上げ始めるのに、そう時間は掛からなかった。治則は薔薇の花束やプレゼントを手に、猛然と滋にアプローチ。その様子を苦々しく見ていたのが岩澤だ。岩澤は、器量がいい自慢の娘を将来は大蔵省か有力官庁のエリート官僚に嫁がせたいと考え、関係者を通じて娘の履歴書まで渡して縁談の口を探していた。そこに突然現れた一介のサラリーマンは、とても理想の結婚相手とは思えなかったのだ。

 滋から「治則さんと結婚したい」と告げられた時、岩澤は荒れに荒れ、「婿養子に入るなら」と条件を出したが、それは義治が許さなかった。その後も、両家の間で駆け引きが続いたものの、最後は若い2人の情熱が勝った。73年、治則と滋は帝国ホテルで盛大な結婚披露宴をあげた。

 仲人は日本航空の常務で、“日航の元帥”と呼ばれて永田町でもその辣腕ぶりが知られた木村稔夫妻。日航の副社長も新郎側の主賓として挨拶に立ったが、それ以上に人目を引いたのはのちに首相になる三木武夫や福田赳夫、大平正芳ら岩澤と親しい大物政治家の面々だった。

 最良の伴侶を得て、岩澤靖という強力な後ろ盾を持った治則が、日航に辞表を提出し、挑戦への第一歩を踏み出したのは、それから約4年後。77年3月のことだった。