現地総力取材「能登半島地震」 「週刊文春」編集部 2024/01/09

余震1000回、道路陥没、家族が生き埋めに…「寸断された能登」

 その日、故郷の姿は変わり果て、暮らす人々は一瞬にして被災者になった。最大震度7を観測した「能登半島地震」。発生間もなく現地に入った取材班の目には、自然の猛威、家族の別れ、そして小さくも確かな希望が映った。

「居間でテレビをつけながら年賀状を見とったら、ちょっと揺れて、すぐまたでっかい揺れが来て。縦とか横とか、もう分からん。全方位に揺さぶられて、家の中のもんが倒れてきて。命からがら外に出たら、コンクリの道路が大蛇(だいじゃ)みたいにうねっとってん」(石川県珠洲〔すず〕市内の女性)

 2024年1月1日16時10分。石川県の能登半島を震源とする最大震度7の大地震が、新年を迎えたばかりの街を蹂躙(じゅうりん)した。甚大な被害は、能登地方に集中。発生から1週間以上が経過した今も、まだ被害の全容は見えていない。

 気象庁が「令和6年能登半島地震」と命名した元日の災禍は、能登に暮らす人たち、能登を故郷とする人たちの、大切な家族や友人の命を一瞬にして奪い、思い出の詰まった我が家を破壊した。その過酷な現実をありのままに伝える。

 能登半島の北東端に位置する珠洲市は、最も震源地に近い街。市のシンボルでもある名勝「軍艦島」(見附島)は、側面の崖(がけ)が一部崩落し、勇壮さで知られる島影を痩せ細らせていた。

 観測上、元日に珠洲市を襲った揺れは震度6強。同市は昨年5月5日にも震度6強の「令和5年奥能登地震」に見舞われている。1人が死亡、全壊40棟を含む3000軒強の家屋への被害が発生。復興のさなかにあったが、地元の住民たちは口々に証言する。

「今回の揺れに比べたら去年の地震なんてかわいらしいもんや。同じ震度6強なわけない。見ての通り、比べもんにならんくらい激しかった」

 泉谷満寿裕(いずみたに ますひろ)珠洲市長は被害の状況をこうまとめた。

「市内の6000世帯のうち9割が全壊、またはほぼ全壊で、壊滅的な状況だ」

珠洲市内全壊の家屋.png

 20年以降、能登地方や能登半島沖では群発地震が活性化。地域住民の防災(ぼうさい)意識は高いはずだった。

「防災訓練も参加しとったし、ハザードマップもあったけど、立っとられんくらいに揺れて、転んだらもう起き上がることもできんかった。家にあった防災グッズも持ってく余裕もなく逃げ出したわ。家の下敷きになった人は、逃げる暇もなかったんやと思う」(避難所の地域住民)

 珠洲市では、地震に加えて、沿岸部が波に飲み込まれた。海沿いには、東日本大震災の津波被害と変わらぬ惨状が広がっている。

 三崎町(みさきちょう)寺家地区(じけちく)に住む辻一さん(68)が語る。

「地震の後すぐ、海岸線の波が300メートルくらい引いた。津波は第1波より第2波のほうが大きかった。先月、海沿いに娘婿(むすめむこ)が新居を建てたばっかりやったんに、津波にやられてもうて。次の日に夫婦で様子見に行って泣いとったわ……」

 宝立町鵜飼地区(ほうりゅうまちうかいちく)の市町俊男さん(76)は、揺れが収まった後、妻と高齢の父母を連れ、4人で自宅を飛び出した。

「瓦礫で塞がれた(ふさがれた)路地を避けながら逃げたけど、波の到達が想像以上に早かった。最初の波をかぶって、次の大きい波で足を取られた。水の中で体が1回転した。気づいたら家族がバラバラになっとった」

 足が悪かった父は、後日、遺体で見つかった。

「4日に対面をして、翌日に死亡手続きを済ませました。火葬は1月10日の予定やけど、葬式は半年後か1年後か……」(同前)

 同じ鵜飼地区に暮らしていた70代の男性は、九死に一生を得た壮絶な体験を振り返る。

「無人だった両隣を合わせた並びの3軒がペチャンコ。うちが平屋じゃなかったら、2階に潰されて死んどったわ。居間におった私と娘はどうにか無事で、頭上に光が見えたから、外に這い出たんです。屋根と地面の間から洗面所におったはずの妻の名前を呼んだら、かすかに返事があった。斜めに倒れた家具の隙間で動けんようになっとったんです」

 自力では救出不可能だった。瓦礫の奥から、妻の切羽詰まった(せっぱつまった)声が響く。

「お父さん、水、入ってきた!」

 到達した津波が浸水してきたのだ。家屋に入り込んだ真冬の海水は、妻の胸元まで水嵩を増していく。

「お父さん、私、もうダメやわ。もう死ぬさけ」

 死を覚悟した妻は、大好きな孫の名前を呼び続けたという。為す術もなかった男性が、思わず涙ぐむ。

「ほしたら、少しずつ水が引き始めて。あたりはもう真っ暗でしたが、駅前に住んどる人が来て、一緒に屋根の瓦を3分の1ほど外してくれて、その後、救助の人が来てバールで屋根の木を壊して、妻を引っ張り出してくれたんです。浸水から4時間後でした。冷たい海水に浸かった妻は、低体温症で足が動かんなっとったけど、入院して今は回復に向かっています」

 珠洲市では、地震発生から6日目を迎えた1月6日夜、倒壊した家屋から93歳の女性が救出され、生還した。生存率が著しく低下する「72時間」を大幅に超えた124時間後の奇跡的な救出劇だった。

 一方で、今回の地震による死者数は、1月8日14時の時点で168人。安否不明者は323人を数える。犠牲者数を示す無情なカウントは、日を追うごとに積み上がっていく。

名物の朝市が消えた

 珠洲市と並び、その数が突出するのは、奥能登の中核都市である輪島市。安否不明者数は、同日時点で全体の8割以上を占める。

 伝統の輪島塗漆器や1000年以上の歴史を誇る輪島朝市で有名な同市は、震災の直後、劫火に包まれた。朝市通りがある市中心部の河井町では、店舗や住宅など200棟以上が全焼。取材班が市内に到着した1月4日の段階でも、街の所々に煙が立ち昇り、焼け焦げた臭いが充満していた。焼失面積は、4万8000平方メートルにも及ぶ。

地震に伴う火事で町は焼け野原.png

 焼失エリアに面した一角で洋服店を営む石畑雅英(いしはた まさひで)さん(63)は、激しく音を立てて燃え盛る(もえ‐さか・る)街の様子をとっさに撮影。動画を見せながら途方に暮れた。

「生まれ育った街の見慣れた景色が、火に包まれてなくなっていく。こんなことがあるのか、これが現実なのか、と」

 例年なら、1月4日に朝市の初売りが行われるはずだった。輪島市朝市組合長の冨水長毅さん(55)が打ち明ける。

「朝市の組合員はいま、190人。コロナの前は240人で、観光業が徐々に衰退しとる中で、今回の地震です。朝市どころか、輪島市が復興できるのか。避難所の組合員と話すと『これからも頑張りたい』という意見と、『作業場もなくなったしこれ以上できない』という意見に分かれる。私個人としては、輪島のシンボルとして朝市を復興させたいけど、まだ安否確認できとらん組合員も、140人くらいおる(7日)。今は安否の確認が先です」

 指定された避難所のひとつ、輪島市立輪島中学校はそんな市中心部を見下ろす小高い丘の上にある。校庭は巨大な地割れでズタズタになり、窓ガラスが割れた体育館の時計の針は、地震発生直後の4時14分を指して止まったままだ。

 校長を務める永草正彦さん(61)が、時折、涙ぐみながら証言する。

「着の身着のままで中学校に逃げてきた生徒もいますし、燃えている自宅の方角を茫然と見下ろす生徒たちもいた。生徒たちになんと声を掛けていいか分からなくて……。40人近くの職員のうち、ここに集まれたのは5、6人ほど。そんな状況で、家が焼失した子、お父さんやお母さんが亡くなった子のケアをしていかなければなりません」

 同校では、1月5日時点で、全校生徒328人のうち、6人と連絡が取れていなかった。孤立地区の生徒たちだった。記者が校長室で取材中、職員が駆け込んでくる。

「お母さんと一緒に実家のほうにおりました!」

 生徒1人の無事が確認できると、永草さんは「よかったああ!」と、破顔して胸を撫で下ろした。

 激震が走った能登半島では、土砂崩れや地面の陥没によって、各地の道路が通行不能になった。「能登半島の大動脈」と呼ばれる国道249号線をはじめ、主要道路が寸断。救助活動や物資輸送を滞らせた。

 道路寸断は各地の「毛細血管」にも及び、1月8日時点で、四市町の24集落、少なくとも3300人以上が孤立状態にあるとされる。ヘリコプターによる救助活動や物資の供給と並行して、急ピッチで道路の復旧作業が行われている。

国道では深刻な渋滞が続く.png

家族全員が土の中に…

 半島中央部に位置し、奥能登の玄関口となる自然豊かな穴水町。1月14日に初場所を迎える大相撲の人気力士・遠藤が生まれた街としても知られる。

 1月7日。同町由比ケ丘地区では、冷たい雪雨が断続的に降りしきる中、懸命の捜索活動が行われていた。視界の先には、無残に押し潰された赤い瓦の屋根。伸しかかった土砂は、寺本直之さん(52)の家族を奪い去っていった。

 直之さんの家族は、妻の弘美さん(53)の故郷・穴水町の実家で新年を迎えていた。顔を合わせた親族は計10人。弘美さんの両親の上野賀弘(よしひろ)さん(79)と春美さん(76)、横浜市から帰省した長男の琉聖(りゅうせい)さん(23)、昨年春から都内の日本料理店で働く次男の駿希(しゅんき)さん(21)、今月成人式を迎えるはずだった三男の京弥さん(19)、2月に高校受験を控えていた長女の美緒寧(みおね)さん(15)、妻の弟夫婦の上野淳一さん(52)と優子さん(51)、その息子の琢磨くん(8)。7日夜までに、全員の遺体が土砂の中から見つかった。

寺本直之さん(左から3番目)一家.png

 直之さんが慟哭しながら言葉を紡ぐ。

「生と死の境界線って何なんですかね。たった1日違いで……」

 金沢市で福祉関係の仕事に就く直之さんは、元日の仕事を終えてから合流する予定だったという。

 囲み取材の後、小誌記者の単独取材に応じてくれた直之さんが続ける。

「地震が起きた時は、まだ仕事中でした。すぐに家族に電話をしましたが、連絡がつかず、携帯や固定電話に何度電話をしても、全然繋がりませんでした」

 震災後、能登地方では大規模な通信障害が発生。町役場や避難所に連絡してみても、詳しい状況は判然としなかった。友人からは穴水町までの道路が寸断されていると聞いた。4日、問い合わせた警察から義母の死を知らされると、緊急車両用の道を誘導され、5日朝にようやく穴水町に到達したのだった。

穴水町の道路は裂断状態.png

「病院でお義母さんの顔を確認して、それから現場でお義父さんと次男が運び出されるのを目の前で見ました。7日になって、他の家族も一斉に出てきて。みんな圧迫されてか、顔がパンパンになって酷い状態でした。ニュースでは珠洲や輪島のことは出とりましたけど、穴水の様子は駅前の商店街の被害しか分からんかったから。まさか自分が家族を全員奪われるなんて。残酷やね……。土砂が家を飲み込むまで一瞬やったらしいです。私と家族の名前も出して、この現実をきちんと報道してください」(同前)

 同じような悲劇は、能登半島の至るところで起きていた。各地では土砂や瓦礫で生き埋めになったままの状態で救助を待っているかもしれない安否不明者の捜索が続く。雪の中、立ったままカップラーメンを啜って食事を済ませた救助隊員が困惑気味にこう吐露した。

「どこに誰が何人生き埋めになったのか、全く分からん。正確な被害者数も分からないし、手探りでやるしかないんです」

瓦礫の中で捜索が続けられる.png

 震災によって生活拠点を奪われた被災者は、学校や集会所など、避難所での生活を余儀なくされている。

「家が倒壊しとらんかった人が、自宅に戻って食べ物とかペットボトルの水、布団や毛布を持ち寄って、初日の夜は凌いだ。壊れた家の木材を燃やしたり、灯油ストーブを持ってきたりして、暖を取りながら」(珠洲市内の避難所の男性)

 孤立集落や中心地から離れた地域には遅れが生じたものの、各地の避難所には食料や飲料水、生活用品などの救援物資が行き渡るようになった。発電機を積んだ車両や携帯電話の移動基地局車両が各地に到着すると、避難所に電気や携帯の電波がもたらされた。だが、最低限のライフラインが確保できた一方で、今も続く断水は、自宅避難者も含めた被災者の衛生事情に深刻な影響を及ぼしている。

「飲み水や炊き出し用の水はあるげんど、手を洗う水がないのはつらい。集団感染症が発生したところもあるみたいやし、シャワーもしたいです」(県立穴水高校に避難している女性)

 仮設トイレの設置は徐々に進んでいるとはいえ、生活用水は圧倒的に不足しているのが現状だ。

 輪島中学校で避難生活を続ける女性が語る。

過疎化と高齢化の中で

「トイレは、4日までは便器に45リットルのビニール袋を被せて用を足して、その上に、拭いたティッシュを置き、3、4人分が溜まった時点で、市の職員が捨ててくれました。5日からは、凝固剤が届いたので、トイレに30リットルのビニール袋を被せ、用を足した本人が縛って捨てるシステムにしています」

 別の女性によると、屋外に設置される仮設トイレには、必ず誰かと一緒に行くようにしているという。ただでさえ不安を抱えて避難所生活を続ける中、街に不届き者が紛れ込んでいる可能性もあるためだ。実際、現地では窃盗被害の報告もあり、多くの避難所が不審者や不審車両の情報を張り出して共有。夜のパトロールを行う地域もある。

「家は誰もおらんし、窓も割れて、どっからでも入れる。普段、めったに見かけん他県ナンバーの車がウロウロしとるさけね。正月やし、車で帰省した若いもんもおるから、どこそこの息子やと分かったら、リストから消して」(珠洲市内の避難所の男性)

 そんな中、取材の間にも幾度となく大小の余震が避難所を揺らした。能登地方では、1月7日までに震度1以上の地震を1000回以上記録している。

 避難所のひとつの県立穴水高校では、1月13日と14日に大学入学共通テストを控える同校3年生の女子生徒が、気丈に避難生活を送っていた。母親同席のもと、彼女が答える。

「被災者は追試も可能ですけど、難度が高くなるそうなので、元々の日程で受けるつもりです。今困っているのは、あまり寝れないことかな……。朝6時頃に起きて23時頃に就寝する生活を送っていますが、夜は1時間毎に目が覚めてしまう。集中して勉強できる環境が欲しいです」

 昨今の能登地方は、加速する過疎化と高齢化に悩まされてきた。若い世代が流出し、人口は減少の一途を辿る。高齢者の比率が高まり、古い日本家屋が多く残る土地を直撃したのが、今回の地震だった。

 中でも、総人口に占める65歳以上の割合、高齢化率が5割を超えているのが、能登最奥の珠洲市だ。

 珠洲市の高齢男性が悲観的にこう漏らす。

「珠洲はもうダメかもしれん。若いもんは高校を出たら地元を離れるし、そのまま戻って来ん。去年の地震で家を直したばかりのとこに、また今回の地震。そんな土地に帰って、家を建てて住もうと思わんやろ。昔、珠洲に原発を作る計画があったけど、原発が建たんかったんがせめてもの救い」

 他方、その珠洲市で起業しようと移住してきた若者がいた。高畠正成さんだ。

「今年で40歳になりますが、年配の方からすれば僕は『若者移住者』の扱いです。出身は石川県内の白山市。来年、珠洲で養鶏の起業をする予定でした。もともと珠洲市に、リンゴ農園を営んでいた知り合いのおじいちゃんがいて。そのご縁でこっちに来るようになり、街が衰退していくのを肌で感じていたんです」

 地震で歪み、散乱した飼料作り用の納屋を片付けながら、高畠さんが続ける。

「この先も、寄り添う姿勢しかない。おじいちゃんとおばあちゃんが多い土地だから。もっと若者がいたら復興のためにいろんなことができると思うんですが」

 土地柄、古くから「能登は優しや土までも」との言葉が伝わる地方でもある。

「僕は珠洲に来て、お金も何もない中、養鶏一本でやろうとしていた。こっちの人たちは、そんな僕に声かけてくれて、ご飯もごちそうしてくれた。この人柄の良さって珠洲しかないと思っているんです。途中からお金儲けよりも、お年寄りに寄り添いながら『若い世代が珠洲に暮らすきっかけを作れたら』と思うようになりました。ここは養鶏も自由にできる土地で、食を自分たちで供給できるっていうモデルケースを作りたかったんですよ」(同前)

 高畠さんは、震災で挫けることなく、今後も珠洲市で起業の準備を続けたいと宣言。「鶏の様子を見てきます」と軽トラックに乗り込んでいった。

 地震発生から1週間を迎えた1月8日。深く傷ついた能登半島に真白な雪が降り積もった。被災地の苦難は続く。だが、険しくともその道のりは、再生と復興に繋がっている。