夜ふけのなわとび 第1859回 林 真理子 2024/10/04
バチがあたる
この原稿を書いているのは木曜日。
明日は自民党総裁選が行なわれる日だ。誰が選ばれるのかわからないが、日本を間違った方向に連れていく人だけはやめてほしい。
中国とは今、いろんなことがある。
かの村上春樹さんはおっしゃった。そういう時の国民感情は、
「安酒のように人を酔わせる」
どうかこの安酒を国民にふりかける人だけは総理になってほしくない。
どうか、どうかよろしくお願いします。
ところでやっと遅い秋がやってきた。実りの秋ほど、山梨県出身でよかったと思う時はない。夏の間は親戚や同級生から桃が届くが、秋になると葡萄に変わる。巨峰やシャインマスカットがいっぱい。今年のシャインマスカットの見事さは、“シャチョー(社長)マスカット”と呼びたいぐらいだ。ずっしりと実が詰まり、甘みが強い。
しかし今年は、このシャインマスカットもぶっとぶようなものが新潟から届けられた。魚沼産コシヒカリである。
今年は急に米不足になり、いろいろなところで騒がれた。スーパーに行っても、棚に何もないことがあった。最近はかなり解消されたが、それでもお米が貴重なことは変わりない。
「ありがとうごぜえますだー」
と宅配の箱を前に、頭を垂れる。
私は今回のことで、お米の有難さが認識されてよかったと思っている。
考えてみると、この何年か私たちはお米をないがしろにしてこなかったか。パンがおいしい、お米は太る、とか言ってお米の消費量は減るばかりであった。おかげで農家もずっと減反をさせられていたのに、今、手の平を返したように、
「お米を寄こせー」
「もっとつくれ」
という要求である。
消費者というのは、なんと勝手なものかと農家の人たちは思っているに違いない。実はこの私も、ダイエットのために、糖質は出来るだけ食べないようにしていた。
しかし皆が「お米、お米」と言うようになったら、急に食べたくてたまらなくなってくるではないか。朝ならいいだろうと、いただいた新米を2合炊いた。こういう時に限って、ご飯の“親友”もいろいろ届いて、今、うちにあるのは加島屋の瓶詰めセット。鮭ほぐしの瓶を開け、炊きたてのご飯の上にたっぷりのせ、その上に焼き海苔をかける。
いつも新米の頃に同じことを言っているが、なんという美味しさであろうか。ほのかな甘みが口いっぱい、うまみとひろがる。2杯軽くいける。
お弁当のご飯は平気で残すくせに、お茶碗のご飯は絶対に残さないのは、私が昔の人間だから。私ぐらいの年だったら、茶碗にご飯を残したら親に叱られたものだ。
「農家の人が大切につくったものを残すとバチがあたるよ」
お米の文字は、八十八回手をかけるからだ、とか何とか。だから、
「いただきます」
「ごちそうさま」
と頭を下げる。 美味しいご飯を恨む
私はこれを日本人のよき慣習だと思っていた。そうしたら友人の井川意高氏が、高須院長との対談でこんなことを言っていた。
彼は子どもの頃から不思議だった。
「先生、お百姓さんは、自分が稼ぐために働いているんじゃないんですか。僕らの顔を思い浮かべながらお米を作っているんですか。感謝するなら、給食費を払ってくれているお父さんに感謝するべきじゃないですか?」
さすがに秀才と言われる人は違う。子どもの頃から、皆がふつうにやっていることに疑問を持ち、それに異を唱えるロジックをちゃんと持っている。
ご自身は、
「先生からすれば、嫌な生徒だったでしょうね」
と言っているが、さぞかしまわりは驚いただろう。お米というのは、おせんべいやグミとは違う。多分に宗教的要素を持っているものだ。それをないがしろにするということは、日本文化を損なうことだと考える大人もいたであろう。バチがあたると脅かしたはず。私は昔から、
触らぬコメに祟りなし。
バチがあたる|林真理子 夜ふけのなわとび 第1859回 林 真理子 2024/10/04
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この原稿を書いているのは木曜日。
明日は自民党総裁選が行なわれる日だ。誰が選ばれるのかわからないが、日本を間違った方向に連れていく人だけはやめてほしい。
中国とは今、いろんなことがある。
かの村上春樹さんはおっしゃった。そういう時の国民感情は、
「安酒のように人を酔わせる」
どうかこの安酒を国民にふりかける人だけは総理になってほしくない。
どうか、どうかよろしくお願いします。
ところでやっと遅い秋がやってきた。実りの秋ほど、山梨県出身でよかったと思う時はない。夏の間は親戚や同級生から桃が届くが、秋になると葡萄に変わる。巨峰やシャインマスカットがいっぱい。今年のシャインマスカットの見事さは、“シャチョー(社長)マスカット”と呼びたいぐらいだ。ずっしりと実が詰まり、甘みが強い。
しかし今年は、このシャインマスカットもぶっとぶようなものが新潟から届けられた。魚沼産コシヒカリである。
今年は急に米不足になり、いろいろなところで騒がれた。スーパーに行っても、棚に何もないことがあった。最近はかなり解消されたが、それでもお米が貴重なことは変わりない。
「ありがとうごぜえますだー」
と宅配の箱を前に、頭を垂れる。
私は今回のことで、お米の有難さが認識されてよかったと思っている。
考えてみると、この何年か私たちはお米をないがしろにしてこなかったか。パンがおいしい、お米は太る、とか言ってお米の消費量は減るばかりであった。おかげで農家もずっと減反をさせられていたのに、今、手の平を返したように、
「お米を寄こせー」
「もっとつくれ」
という要求である。
消費者というのは、なんと勝手なものかと農家の人たちは思っているに違いない。実はこの私も、ダイエットのために、糖質は出来るだけ食べないようにしていた。
しかし皆が「お米、お米」と言うようになったら、急に食べたくてたまらなくなってくるではないか。朝ならいいだろうと、いただいた新米を2合炊いた。こういう時に限って、ご飯の“親友”もいろいろ届いて、今、うちにあるのは加島屋の瓶詰めセット。鮭ほぐしの瓶を開け、炊きたてのご飯の上にたっぷりのせ、その上に焼き海苔をかける。
いつも新米の頃に同じことを言っているが、なんという美味しさであろうか。ほのかな甘みが口いっぱい、うまみとひろがる。2杯軽くいける。
お弁当のご飯は平気で残すくせに、お茶碗のご飯は絶対に残さないのは、私が昔の人間だから。私ぐらいの年だったら、茶碗にご飯を残したら親に叱られたものだ。
「農家の人が大切につくったものを残すとバチがあたるよ」
お米の文字は、八十八回手をかけるからだ、とか何とか。だから、
「いただきます」
「ごちそうさま」
と頭を下げる。 美味しいご飯を恨む
私はこれを日本人のよき慣習だと思っていた。そうしたら友人の井川意高氏が、高須院長との対談でこんなことを言っていた。
彼は子どもの頃から不思議だった。
「先生、お百姓さんは、自分が稼ぐために働いているんじゃないんですか。僕らの顔を思い浮かべながらお米を作っているんですか。感謝するなら、給食費を払ってくれているお父さんに感謝するべきじゃないですか?」
さすがに秀才と言われる人は違う。子どもの頃から、皆がふつうにやっていることに疑問を持ち、それに異を唱えるロジックをちゃんと持っている。
ご自身は、
「先生からすれば、嫌な生徒だったでしょうね」
と言っているが、さぞかしまわりは驚いただろう。お米というのは、おせんべいやグミとは違う。多分に宗教的要素を持っているものだ。それをないがしろにするということは、日本文化を損なうことだと考える大人もいたであろう。バチがあたると脅かしたはず。私は昔から、
触らぬコメに祟りなし。
理屈はやめてお米は食べるだけにしておいた方がいい。また井川氏とは反対に瑞穂のナンタラカンタラ言うようになってくると、わりとややこしい人になっていくような気がする。
さて、またまた話は変わるが、私は炊き込みご飯がそれほど好きではない。白いご飯を白いままで食べたい方である。が、この頃ちょっと気のきいたお店へ行くと、最後に出てくるのは必ずお釜で炊いた炊き込みご飯だ。
今の季節だと、マツタケとハモ、なんていう贅沢な取り合わせも出てくる。ちょっと前はトウモロコシが多かった。
私はご飯をほんのちょっといただく、するとたいてい残りをお握りにして持たせてくれる。竹皮にくるみ、包装紙をかけ、ひょいと紐をする。それをお店の名を書いた紙袋に入れてもらい、持って帰りのタクシーに乗ると、とても満ち足りた気持ちになる。
が、うちに帰ってからが問題だ。育ち盛りの子どもでもいれば大喜びされるであろうが、夜遅く食べてくれる人はいない。仕方なく、いったん冷蔵庫に入れる。次の日、朝ご飯に食べる。すごくまずくなっている。
「お土産のお握り、どうしてる?」
とまわりに聞いたところ、
「帰ってきて、つい食べてしまう」
という答えが多かった。
私もぬくもりのあるお握りを手にして考える。冷蔵庫に入れ、まずくするのはしのびない。だから食べる。炊き込みご飯はお握りにすると美味しい。だからついもう1個食べる。結局3個食べる。そして恨む。
「私をもっとデブにしようとして、お握りのバカ」
そしてバチがあたるのではないかと首をすくめる。 理屈はやめてお米は食べるだけにしておいた方がいい。また井川氏とは反対に瑞穂のナンタラカンタラ言うようになってくると、わりとややこしい人になっていくような気がする。
さて、またまた話は変わるが、私は炊き込みご飯がそれほど好きではない。白いご飯を白いままで食べたい方である。が、この頃ちょっと気のきいたお店へ行くと、最後に出てくるのは必ずお釜で炊いた炊き込みご飯だ。
今の季節だと、マツタケとハモ、なんていう贅沢な取り合わせも出てくる。ちょっと前はトウモロコシが多かった。
私はご飯をほんのちょっといただく、するとたいてい残りをお握りにして持たせてくれる。竹皮にくるみ、包装紙をかけ、ひょいと紐をする。それをお店の名を書いた紙袋に入れてもらい、持って帰りのタクシーに乗ると、とても満ち足りた気持ちになる。
が、うちに帰ってからが問題だ。育ち盛りの子どもでもいれば大喜びされるであろうが、夜遅く食べてくれる人はいない。仕方なく、いったん冷蔵庫に入れる。次の日、朝ご飯に食べる。すごくまずくなっている。
「お土産のお握り、どうしてる?」
とまわりに聞いたところ、
「帰ってきて、つい食べてしまう」
という答えが多かった。
私もぬくもりのあるお握りを手にして考える。冷蔵庫に入れ、まずくするのはしのびない。だから食べる。炊き込みご飯はお握りにすると美味しい。だからついもう1個食べる。結局3個食べる。そして恨む。
「私をもっとデブにしようとして、お握りのバカ」
そしてバチがあたるのではないかと首をすくめる。