夜ふけのなわとび 第1853回 林 真理子 2024/08/09

オリンピックウィーク

 オリンピックが盛り上がってきた。

 毎日メダルラッシュが続き、さまざまなドラマがある。

 私はこれまで、スケートボードやBMX競技(bicycle motocross)といったものにほとんど興味を持たなかった。それなのについ見入って(みいって)しまう。

 しかしそれにしても、どうしてあんなことが出来るのだろうか。水泳、体操、柔道といったものは、まだ頭の中で理解出来る。

「ああして、こうして、こういったことを努力しているんだろうな」

 しかしスケボーやBMXとなるとお手上げだ。空中へジャンプし、その間にボードを動かす。BMXだと体を離して回転させ、サドルを掴む。動きの仕組みがわからない。選手も、まだ年齢のいかない子どもだったり、BMXだとふつうの体格の若い人だったりする。が、やたら面白くて、夜中でもテレビから離れられない。

 実は日大も何人もの選手を送り出し、コーチや監督など関係者を含めるとかなりの数にのぼる。このあいだ馬術を見ていたら、スタッフの中によく見知った顔が。本部の職員で、こういう時はとても嬉しい。

 私も選手が持っていく日の丸の旗に寄せ書きしたり、選手の訪問を受けたりした。本部ではウチワもつくり、気分は盛り上がるばかり。

 ところで私が通う市ヶ谷の本部では、2階に講堂とサロンがある。そのサロンではガラスケースにいろんな品を置いてあり、2ヶ月ごとに展示品を変えている。といっても、一般の人は入ってこられないので、見るのは職員だけ。自然、大学の歴史といったものになる。

「今回は日大のオリンピックの歴史です」

 というのでさっそく見に行った。

 戦前のロサンゼルスオリンピックから、出場した選手のリストや写真が飾ってある。監督のメモや船の中の食事のメニューも。

「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進さんは日大卒業であるが、この方の記念品は展示の目玉だ。そうしたら、一緒に見ていた職員(50代)が、

「僕、学生の時、体育の水泳は古橋先生に教わりました」

 と言うので驚いた。長らく教授をしていらしたそうだ。

 そして、昔のアスリート大学生のカッコいいことといったらない。今と顔の形があきらかに違っている。顎ががっしり張っている選手が多く、みなおとなびているのだ。当時の制服やユニフォームも素敵。

「そういえば私、大学の時の卒論が田中英光の『オリンポスの果実』だったんだよね」

 彼は早稲田大学の学生の時に、ボート選手として、1932年のロサンゼルスオリンピックに出場する。ロスへ向かう船の中での、女子学生との淡い恋を描いたこの物語は、未だに青春小説の名作として評価が高い。

「その卒論のファイルがあれば展示出来るんですけどね。このガラスケース、日大関係者でオリンピック関連のものなら、何でも飾りますよ」

戦争の災禍 「そう、そう」

 私は声を出した。

「私、このあいだの東京オリンピックで、聖火ランナーやったんだよ」

 えーっと一同どよめき。

「本当だってば。ほら、ほら、これ。山梨の桃畑走ったの」

 スマホの写真を皆に見せた。トーチを持って満面の笑みである。

「リジチョーも、こんな顔してたんですね」

「そうだよ、この時はまだ自分の運命を知らなかったよ。ここに来てからは、記者会見のおかげで、すっかり暗く怖い顔してるオバさんになったけどね」とつい愚痴が出る。

「このトーチを展示しましょう」

「あの時、自分の使ったトーチは6万だか7万で買えたんだけど、高いし、私のことだからどうせほったらかしにするだけだと思って買いませんでした」

「残念ですねー」

 しかし展示物が足りなかったらしく、私の聖火の写真はトランプの札ぐらいの大きさにされ、飾られることになった。展示の最後に、よく見ると私の聖火を持つ姿があり、皆の笑顔(苦笑)を誘うことになる。

 ところで今回、馬術の銅メダルは思わぬ副産物を産んだ。前回、92年前に馬術で金メダルをとったバロン西が、にわかに注目されることになったのである。

 バロン西、あの硫黄島で命を落としたことでも有名だ。最後の最後まで、アメリカ軍は投降を呼びかけたという。しかし彼はそれに応じることなく、仲間と死ぬことを選んだ。当時の日本人ならあたり前のことだったのであろう。

『オリンポスの果実』の作者、田中英光は恩師太宰治の墓の前で自死を遂げた。当時のアスリートたちの多くが、戦争や戦後の葛藤によって青春を完結出来なかったということはなんと悲しいことだろう。

 パリオリンピックに出場している、ウクライナやガザ地区の選手たちに、不幸な運命が待っていないことを祈るばかりである。

 さて話が全く変わるようであるが、今、シリコンバレーにいる、私の元担当者からLINEが。新聞社に勤める女性だ。

「アメリカの若い学者やジャーナリストたちが集まるシンポジウムに行ってきました。そこで私の高祖父は海軍大将だったけど、日米戦争ではなく、日露戦争で戦いましたってジョークを言ったけどウケませんでした」

「えー、誰なの?」

 名前を聞いてびっくり。瓜生外吉だと。

「ということは、あなたの高祖母は岩倉使節団に入って初めてアメリカ留学した永井繁子なのね。益田孝とも親戚!」

 オリンピック1週目、私は不思議と過去とアメリカにつながったのである。