夜ふけのなわとび 第1837回  林 真理子 2024/04/05

心と精神

 わが日大の卒業式は、日本武道館(ぶどうかん)で2回にわけて行なわれる。

 言うまでもなく学校法人としての大イベント。私は昨年の早いうちに、色留(いろど)を新調していた。一昨年も一枚つくっている。

 色留などというものは、めったに着るものではない。叙勲(じょくん)とか親族の結婚披露宴に着用するものだ。着物の格としては最高クラスで、男性のモーニングに匹敵するもの。

 あれは6年前、私が紫綬褒章(しじゅほうしょう)をいただいた時だ。隣りに住むオクタニさんから電話がかかってきた。着物については皆が師匠と呼ぶ人。

「当日いったい何を着るの?」

 まずはそのことを心配してくれたのか。ありがたい。

「前から持ってる、竹の模様の色留を着ていこうと思ってるけど。ほら、あなたの結婚の時につくったやつ」

 正確に言うと再婚か……。

「ダメ、ダメ。あれは派手過ぎるわ。もっと落ち着いたものにしなさい。私が〇〇〇〇にさっそく頼んでおいてあげたわよ」

 〇〇〇〇というのは、オクタニさんいきつけの有名な呉服屋さんである。この話をすると多くの人たちが誤解する。

「オクタニさんって、本当はやさしい人なのね。ハヤシさんのお祝いに着物をつくってあげるなんて」

「そんなわけないでしょ」

 手を振る私。

「もちろん私が支払いますよ」

「えー、それならなぜ、勝手に!?」

 まあ、いろいろあったが、お祝いごとであるし、私は色留と帯を一式揃えた。

 話はまだ続き、5年前の女性誌のグラビアに人気俳優さんと対談で出ることになった。正月号なので私は華やかにしようと、鮮やかな色の竹模様の色留を着た。するとオクタニさんからLINEが。

「いい年をして、あんな派手なものを着てみっともないと私のまわりの人たちはみな言ってます」

 かなりむかついた私は、その色留を帯ごと親戚の女性に送ってしまった。

 オクタニさんのおかげで一枚増え、一枚減った色留……。

 まあそんなことはどうでもいいとして、卒業式にはもっと大切な仕事が待っている。それは祝辞をのべることだ。これについては原稿を1ヶ月前に書いておく。

 理事長とは書くことと見つけたり。たくさんの行事があり、そのためにスピーチをするのでしょっちゅう原稿を書いている。作家としての挨拶ならその場で何か適当に言い、人を笑わせたり出来るのだが大学だとそうはいかない。間違いはないかと、チェックを受ける。

 と言っても、ありきたりのものではなく私らしさも出していきたいと思う。かなりの時間をかけてあれこれ考えるのです。

 今年の卒業生には、昨年の不祥事を謝罪すると共に、当然のことながらこれからの人生の励ましとなるような言葉を。キレイごとではなく、後々に思い出してくれるような言葉が欲しい。

 私はこう書き始めた。

「これから世の中に出ていくあなたたちに言いづらいけれど、申し上げたいことがある。それは世の中は、たくさんの理不尽なことがあるということ」

 あなたじゃなけりゃ、この言葉は言えないわねと、みんなの悪態。

 しかしこの後が続かない。理不尽なことがあっても頑張れ、ではあたり前すぎるのではないだろうか。

 こうしているうちに日にちは経つ。週刊文春ほどではないが、やはり〆切りはつらい。

理不尽と戦うために

 そんな時、週刊新潮の対談であの齋藤孝先生がこうおっしゃっているではないか。

「心と精神は違うものだと思っています。心とは、喜怒哀楽(きどあいらく)があって、日々移り変わるものです。でも、精神は安定感があるもの」

 雷にうたれたように感動した。なんと素晴らしい言葉であろうか。さっそく使わせていただくことにした。無許可であるが、卒業式、入学式のスピーチに名言が使われるのは恒例のこと。もちろん、

「『声に出して読みたい日本語』をお書きになった齋藤孝先生はこうおっしゃっています」

 とⒸは入れる。齋藤先生は、精神をつくりあげるために、ドストエフスキーやニーチェは有益だと説いていらっしゃるが、この後私なりにアレンジを入れ、強い精神をつくり上げるために、芸術というものは存在していると進めていった。芸術という言葉が固苦しければさまざまな美しいもの。そうしたものと出会うことにより精神をつくり上げ、それを楯に世の中の理不尽と戦ってほしい……。

 卒業生の胸に私のスピーチがどこまで届いたかわからない。しかしこの、

「心と精神は違うもの」

 という言葉は、それから私の指標となっている。

 どれほどつらいことや嫌なことがあったとしても、そのことで右往左往(うおうさおう)したとしても、心がすりきれたとしてもそれはそれで仕方ない。心は日用品なのだ。

 ボロボロとなった心の向こうに、精神というものが毅然と立っていればそれでいいのではないか。

 いざという時に、この精神が私たちを正しい方向に導いてくれるのではなかろうか。

 私は大谷選手を見ていて、この齋藤先生の言葉を思い出すのである。

 いまはさぞかしつらいことであろう。メンタルもかなりダメージを受けているに違いない。

 しかし彼の内には、凡人(ぼんじん)には持ち得なかった、精神というものが確立していると私は信じたいのである。

 今現在、大谷選手は不調が伝えられている。が、彼がホームランを連発してくれることを私は疑わない。ショーヘイ、頑張れと、私は卒業生へと同じぐらいの熱情(じょうねつ)を込めてエールを送っているのである。