夜ふけのなわとび 第1838回   林 真理子 2024/04/12

続いている

 またしても父の話題となって恐縮である。

 まるで父があの世からこちらを見ていて、

「オレのことを書くなら、ワルグチばかりでなくちゃんと書け」

 と言っているようである。

 ついこのあいだのこと、編集者の人たちとご飯を食べていた。話題はなぜか中国について。毛沢東の話がひとしきり続いて、その時私は思い出したことがある。

「そう、そう、胡耀邦さんが来日した時、うちの父は『胡耀邦の思い出』っていう文章を書いて、朝日新聞の『声』に投稿したんだよ。それ、ちゃんと載ったよ」

「えー!」

 そこにいた6人はいっせいに声をあげる。

「それって、本当ですか!」

「そう、そう、ホント。うちの父がハシカか何かにかかって死にかけた時、胡耀邦さん、部下にいって薬を届けてくれたんだって」

「すごい話じゃないですか!」

「うちはね、みんな投書が好きで、うちの母も朝日新聞の『ひととき』に載ったことあるよ」

 そのずっと昔は、私の書いた詩を母が新聞に投稿して載ったこともある。

「それにしても、コ、コヨウホウさんが、薬を届けたなんて、ハヤシさんのお父さんはすごい人だったんですね」

「いや、いや、ちょっと待って」

 だんだん心配になってきた。

「たぶん私のことだから、きっと間違ってると思う。朝日新聞に載ったのは憶えてるし、胡耀邦さんのことも書いてあったはずだけど、たぶん間違ってるよ」

「いや、いや、僕がすぐに調べますよ」

 ひとりが言った。

「当時の朝日新聞を検索すればすぐにわかることですから」

 そうしたら4日後ぐらいに彼から連絡があった。

「ハヤシさん、胡耀邦さんの来日した前後に、お父さんの投書は見つかりませんでした」

 しかし、メールにこんなひとことがつけ加えられていた。

「ハヤシさんの性格からして、もういいよ、と言いそうですが僕はねちこいんで。それにこの一件、すごく興味を持ちました」

 その言葉どおり、半月後、ちゃんと父の投書を見つけ出してくれたのである。なんでも朝日新聞の知人にも手伝ってもらったのだが見つけられず、縮刷版を手作業で探したという。

 そして予想どおり大きく間違っていた。本当にごめんなさい。私の父は、胡耀邦さんの思い出を書いたのではなく、胡耀邦さんが遺族を訪ねた、ある日本人に関しての思い出を書いたのである。

 昭和58年11月24日、朝日新聞声欄。

「公賓として来日の中国共産党の胡耀邦総書記が、稗田憲太郎博士の遺族と対面なさるとの十四日付本紙記事を読み、終戦後中国に残留し、張家口の医大病理室では先生の秘書のような形で勤務していた私には、今更ながら先生の人格識見がしのばれ、非常にうれしく思う」

 この稗田先生というのは、プラセンタの研究者として知られ、当時の中国で国賓扱いだったそうだ。

「自分は張家口付近の中国野戦病院に勤務していた時のこと、赤痢で私が生死をさまよっているのを先生が耳にされ、貴重薬のダイヤジン百錠を届けて下さったおかげで九死に一生を得て、感泣したことである」

 そうか、薬を届けてくださったのはこの先生だったのか。

 この時「九死に一生を得た」父は、戦後8年もたってから帰ってきて、母はさんざん苦労するわけだ……。

消えた曾祖父

 そしてこの思い出話はこれで終わりになるかと思いきや、またあらたな展開が。

 2日前のことである。うちの秘書のセトと話していた。

「ハヤシさん、お父さまの投書の件、無事に見つかってよかったですね」

「本当に。いい加減な私の話にちゃんとつき合ってくれて有難いよ」

「でもいいお話ですよね」

「まあね。うちの母は、よく言ってたよ。戦後、みんな食うや食わずで必死だった時、うちの父は中国でいい思いをしてた。あの苦労を知らないから、ずっとちゃらんぽらんに生きてきたと」

「でも当時の人は、みんな大変なご苦労をしたと思います。あの、ハヤシさん、私の曾祖父の話、憶えてますか」

「うん、憶えてるよ」

 ある日、九州博多にあるセトの実家に、老人が訪ねてきたそうである。老人のお父さんは、彼女のひいじいさんと引き揚げ船が一緒だったという。ひいじいさんは戦後シベリアに送られ、それこそ「九死に一生」を得ていた。

 2人の引き揚げ兵は、船の中で今までの自分の人生、故郷のこと、妻子のことまでこと細かに話し、再会を約束して船を降りた。

 その兵士の息子が、住所を頼りにセトの実家を訪ねてきたというわけだ。

「せめてお線香をあげさせてください」

 彼女のお母さんは驚いた。なぜならおじいさんはシベリアで死んだと聞かされていた。ひいばあさんはずっと夫のことを待ち続けたが、ついに帰ってこなかったそうだ。船から降りた後、セトのひいじいさんはどこかに消えたのだ。

「私がその話をした時、ハヤシさんは絶対に朝日新聞の『声』に出しなよ、って言ったんです」

「そうだったかしら」

「それで私、書いて投稿したら朝日新聞から電話がかかってきて、あさっての朝刊に載ることに」

「えー!」

 私の父が結んだ縁としか思えないのである。セトは「オッペンハイマー」を週末見に行った。戦争はどこかでいまだに続いているんだ。