夜ふけのなわとび 第1836回 林 真理子 2024/03/29

イッペイさんへ

「青天の霹靂(へきれき)」というのは、こういうことを言うのであろう。

 もちろん大谷選手の通訳のことである。みんなから「イッペイさん」と呼ばれて親しまれていた。大谷選手とキャッチボールをしている姿も私たちは記憶している。

「異国で、彼の存在はどれほど大谷選手を支えているか」

 誰しもが思っていたに違いない。それが突然の解雇である。詳しいことはまだわかっていないが、大谷選手のお金を横領(おうりょう)していた、という疑いもあるらしい。

 それにしても、よりにもよって(選りに選って、of all the things)、という感じである。

 大谷選手はこのたび、素敵な配偶者(はいぐうしゃ)を得て、幸せの絶頂であったはず。お相手が素晴らしい女性で非の打ちどころがない(cannot be faulted)。

「さすがに大谷選手」

 と皆は感心した。それはいいとして、メディアはまるでプリンス、プリンセスのような書き方であったのは事実だ。気の毒なのはスケートの羽生(はにゅう)さんで、

「それにひきかえ」

 ということになった。別れた奥さんまでマスコミにとりあげられ、ブランド品を着ていたとかなんとか女性週刊誌に書かれていた。

 とにかく大谷選手は世紀のヒーロー。完全無欠(かんぜんむけつ)の青年だと皆が認めていた。今回のことで、いきなりどす黒い渦(どすくろいうず)の中に放り込まれた。彼には何の罪もないと思うが、ピカピカの純金(じゅんきん)に傷がついたのは確かなのである。

 それにしても、あの純朴(じゅんぼく)そうなイッペイさんがギャンブル依存症とは驚いた。そんな闇を抱えていたとは……。

 これについていろいろ聞いてみようと、親しいイカワさんにLINEした。大王製紙(だいおうせいし)の元会長で、ギャンブルによって子会社のお金を106億“熔かした(とかした)”人である。つまりギャンブルによってすってしまったということ。このことによって彼は刑に服す(ふくす)のであるが、出所(でどころ)してからは、本やユーチューブなどで大人気。もともと東大法学部卒の経歴で頭が抜群(ばつぐん)にいい。弁舌も爽やか(さわやか)。

「いったいイッペイさんのことをどう考えているんだろうか」

 とLINEしようとしたところ、先まわりして、自分が載った記事が送られてきていた。やはり考えることはみんな一緒で、取材が殺到しているということであった。

 彼によると、

「水原氏が違法とは知らなかった」

 というのはあり得ないそうだ。説得力がある。

 ところでどうして私が水原さんにこれほど興味を持つかというと、大谷選手の通訳だったからだけではない。私の父が大変なギャンブル好きだったからである。

 パチンコ、麻雀(まーじゃん)、競馬、なんでもやった。父の前職は銀行員で、とてもまじめな人、という触れ込みで母は結婚したのであるが、それがすべての間違いの元であった。

 父はこれに発明狂(はつめいきょう)という側面もあり、時々東京に出ていってはすってんてん(一文なし)になって帰ってきた。おかしなものを作っては借金をこさえてくるのだ。

 あんまり死んだ父のことを悪くいうのはナンであるが、最後までギャンブルに執着(しゅうちゃく)を持っていたのはすごかった。

 脳溢血(のういっけつ)で倒れてから、左半身が不自由となるのであるが、杖をついても場外馬券場(ばがいばけんじょう)に通った。

 驚いたのは実家に戻りくつろいでいたある日のこと、顔を上げると見知らぬ男の人が勝手に入ってきているではないか。

 が、父は全く動ぜず、

「これで頼むよ」

 と数枚の千円札とメモを渡した。

「はいよ」

 もの慣れた風に出ていく男性。

「知り合いのタクシーの運転手さんに頼んで、馬券を買いに行ってもらっている」

 母も諦め顔(あきらめがお)である。

 そうそう、亡くなる直前まで宝クジを買い続けていたから、お棺(ひつぎ)の中には宝クジのはずれ券をいっぱい入れてやった。

「たぶんあの世でも、馬の予想をしてるんじゃないの」

 と皆で言い合ったものだ。

波瀾万丈(はらんばんじょう)の人生

 何を言いたいかというと、ギャンブラーは一生ギャンブラーということ。重度(じゅうど)な人は治療を受けたりするらしいが、まあ、たいていはなおらないだろう。

 イッペイさんは、

「私はギャンブル依存症」

 と言ったらしいが、治療はむずかしいのではなかろうか。

 さて父のおかげで、私も弟もギャンブルというものをいっさいしない。若い頃は麻雀を少ししたが、せっかちなのですぐに振り込んでしまう。

「だけどハヤシさんは、ものすごいギャンブラーだと思うよ、人生において」

 出版社のAさんに言われたことがある。戦後もずっと中国で過ごした父の人生が、実に波瀾万丈だというので、いずれ本にしたいとうちに来てくれたことがあった。

「ふつうの人がやらないことをやるし、よせばいいのに、と思うことをどんどんやってく。僕は昔からびっくりしてるよ」

 そしてこんなことも。

「ハヤシさんを見てると、2つの人格がある。いい加減で、ギャンブラーの一面と、ものすごく慎重で保守的。いったいどっちが本当のハヤシさんだろうかとずっと考えてたけど、今回ご両親を見てわかりましたよ。2人のDNAがかわるがわる出ているんですね」

 ところが母がこんなことを。私が50を過ぎてからだ。

「マリちゃん、私にそっくりになったね。ものすごく根性と克己心(こっきしん)を持ったね」

 やっと誉められたかと思いきや、

「だけどマリちゃんのたった一ついいところは、お父さんに似て大らか(おおらか)だったのに、私みたいな心配症になって本当に残念」

 イッペイさん、奥さんを大切にしてくださいね。大変なのは家族です。