第19回 河﨑 秋子2025/01/16

夜明けのハントレス

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、狩猟雑誌を読んで狩猟に惹かれ、猟友会会長の新田に教えを乞いながら狩猟免許を取得した。そして就活も終え、マチのハンター二年目の猟期が始まった。マチは、単独猟を経験するために初めて一人で山に入り、クマに遭遇(そうぐ)してしまう。小さくて痩せたそのクマを仕留めるが、持ち帰った肉は、質が悪く不味かった(まずかった)。

 堀井銃砲店の店内は静かだった。店の前を通る車のエンジン音が随分遠くに感じられる。お婆さんはマチを見据えながら続けた。

「臆病でも、他にもっといい道があったように思えても、なにより鉄砲撃ちの命と体が大事。だから、クマがあなたのいる方向に歩いて来た時点で撃つのを決めたことに、後悔すべきじゃない」

 お婆さんの声は穏やかだ。しかし、その視線は反論も曖昧な相槌も許してくれそうにない。視線を外せないまま、マチは口を開いた。

「それがどんなクマであっても、ですか?」

「そう」

 先に答えたのは、向かいにいる店主の堀井だった。

「自分の方へ歩いてきていて、そのまま距離が縮んでいたんだろう? 襲われる可能性がゼロでないのなら、先手(せんて)を打ってやられる可能性をゼロにしてほしいところだよ。銃を売る立場としては、特にね」

 そう言うと、堀井は右手を動かして壁のケースに陳列されている銃の数々を指した。

「新田さんは指導する立場だから、安全のこと以外に技術や意識の向上も大事にするだろうね。時には獲物にあえて発砲しない、という選択肢を勧めることもあるだろう」

 堀井が示した銃の数々は、中古も新品も、どれも塵ひとつなく磨かれて照明の光を反射している。

「それはそれで一つの正解。でも、我々のような、銃を売る側にとっては、どんな理屈や精神論よりもまず、安全であって欲しいと思うよ。自分のとこで販売した商品を手にした誰かが怪我(けが)したり死んだり、ってのは我慢がならない」

 堀井の言葉は柔らかく、しかし重みがあった。生き物を殺せる道具を売る商売への、並々ならぬ矜持(きょうじ)と倫理観が感じられる。マチは神妙に頷いた。

 お婆さんはゆっくり右手を上げると、人差し指をマチへと向けた。人に指をさされても、お婆さんの表情の穏やかさから腹が立つようなことはなかった。

「動物と人間。お互いにとってベストなポイントを探るのはもちろん大切。でも、その見極めができるほど、あなたは万能なのかしらね?」

 マチはお婆さんの言葉にハッと顔を上げた。あの弱ったクマを殺したことを、撃つべきではなかったかも、と思うことは、ただの自分の傲慢だったのかもしれない。それは、クマの力を見くびり小さく見積もっていた、傲慢さがもたらした後悔だったのではないか。

 マチは全身を寒風に晒されたような気がして、大きく震えた。両腕で自分の体を抱きしめる。気を抜くと、震えて奥歯(おくば)さえ鳴りそうだった。

 何も分かっていない。私は。

 あのクマに殺される可能性だってあったのだ。自分が足を踏み入れる山にいるあの獣は、銃口を向けたあいつは、この身を殺しうる動物だったのだ。たとえ弱り、放っておけば死を待つだけの個体だったのだとしても。

「今さら、怖くなってきました。ばかですね、私」

 お婆さんと堀井は答えずに微笑んでいた。複雑な手続きと試験を経てハンターとなり、ようやく狩猟のスタートラインに立った気がしていた。複数の鹿を仕留め、経験も少しずつ積み重なっていたと思っていた。山のこと、動物のことは確かに以前よりも分かっている。

 しかしまだまだ足りない。まだまだ及第点にも至れて(いたれて)いないのだ。

 マチは急に、クマを撃った後悔をだらだら抱えていたことが恥ずかしくなった。おこがましい。その一言に尽きる。

 下を向いていたマチに、お婆さんは腕を組んで「まあねえ」と声をかけた。

「鉄砲撃ちは一生勉強。後悔のない猟なんて滅多にない。クマの見極めまでできるようになるには、まだまだ頑張らなきゃね」

 堀井も続ける。

「そうだね。安全に経験積んで、長くうちのお得意さんになって貰いたいもんだ」

 二人の厳しく、かつ誠実な励ましに、マチは少し心が上向いた。言われたことを嚙み砕いて解釈すると、ウダウダ考えて時間を潰していることさえ勿体ないような気がした。

 こんな時、えみりならどう言うだろうか。ふと、マチの脳裏にずいぶん前に縁が切れてしまった友人の顔が思い浮かぶ。努力家で苦労を厭わず(いとわず)前に進むあの子なら、「つまりコレ伸びしろしかない」と立ち上がる気がした。

 一に前進、二に前進。そして一生勉強。

 結局は、銃を持つ限り、お婆さんの言う通り勉強を続け、経験を積み続けるしかないのだ。鹿撃ちを続けていれば、単独でも、グループでも、いつかまたクマに出くわし、撃つか撃たないかの選択を突き付けられることもあるだろう。マチは今のところノータッチだが、新田らベテランのように自治体から協力を要請されてクマに立ち向かう日も来るのかもしれない。

 その時に、ちゃんと決断して仕留め、かつ後悔しないで済むハンターになりたい。

「いずれまた、クマに出会うこともありますかね」

 ふと、そんな言葉が零れ出た(。

「そうね。進んで撃ちたいとかじゃないかもしれないけど、心構えというか、心の準備はしておいて損はないと思う。その方が何かあった時に対処しやすいし」

 お婆さんはそう言うと、「そうだ」と顔を上げた。

「あなた、新田さんから三笠の佐藤さんの話、聞いたことある?」

「三笠(みかさ)の佐藤さん? いえ、ないです」

 新田は顔が広く、どこそこの誰々、と色々なハンターの話をする。が、『三笠の佐藤さん』の話は覚えがない。

「私と同年代だから、もう八十歳ぐらいかな。昔から腕のいいハンターで、新田さんに、冬山(ふゆやま)の歩き方を教えた人でもあった。大事な師匠だから、かえって話題に出さないのかもね」

「へえ、新田さんの」

 今は射撃、山歩き、後進の指導もこなすベテランハンターの新田の師匠。マチの脳裏に目つきの鋭い老ハンターのイメージが浮かんだ。なぜか蓑(みの)に笠姿で、さすがにそこまでじゃないはずだと密かに想像をかき消す。

「集落からだいぶ離れたところに住んで半農半猟(はんのうはんりょう)で暮らしていることもあって、ちょっと独特なスタンスの鉄砲撃ちよ。もちろん、若い頃からクマを何度も仕留めてる」

 確かに、内陸に位置して山がち、炭鉱が閉山(へいざん)して人口も減ったところで半農半猟の生活をしていたら、クマとの距離も近くなるだろうな、とマチは納得した。

「あなた、興味あるなら会いに行ってみない?」

「そうですね……」

 マチは顎に手をやって考えこんだ。積極的に興味がある、というよりは、クマを撃った経験が豊富な孤高(ここう)のハンターの考えがどんなものなのか、一度知っておくべきかと思う。なにより、こうして堀井銃砲店のお婆さんがわざわざ話題に出してくるぐらいなのだから、断らずに話を聞いておくべきなのだろう。今後の付き合いというものもある。

「ええ、行って、お話伺ってみたいです」

 よし決まり、と言わんばかりにお婆さんは薄い両手をぱんと叩いた。

「じゃあ、私の方から電話入れておくわ。アタマも体も元気だけれど、若い子と話すのが好きな人だから、遊びに来るとなったら、きっと喜ぶと思う」

 嬉しそうなお婆さんを前に、マチは苦笑い(にがわらい)にならないよう微笑んだ。いくつになっても年若い女の訪問を性的な意味も含めて喜ぶ男性というのはいる。気を付けなきゃ、と密かに心構えをし、話題を変えた。

「その、佐藤さんて、お酒は何がお好きですか? お手土産、日本酒とか焼酎とか、どんな種類が喜ばれるでしょう」

「お酒より、お菓子とかの方がいいんじゃないかしら。亡くなった旦那さんはお酒好きだったけどあの人は飲まないから。仏壇から下げた後、消費するのも大変でしょうし」

 お婆さんの言葉に、堀井も「そうだね、アヤばあ、あんこもの好きだよね」と頷いている。

「女性なんですか!?」

 マチは大声を上げてから、はっとした。慌てて言い訳の言葉を探す。

「すみません、お爺ちゃんハンターを勝手にイメージしてたものですから」

「ああごめん、言ってなかったわ。佐藤さん、下の名前は綾子(あやこ)さん。女性よ。まだ若い頃に旦那さんと一緒に鉄砲撃ちになってね。長いことやってきた人だから、ただ話聞いてるだけでも色々知ってて面白いと思う」

「ああ、まあ、色々ねえ。その、刺激的かもしれない」

 思い出し笑いをする堀井の表情が気になったが、マチは言われるままその佐藤綾子さんの連絡先をスマホにメモした。

 翌週の日曜、マチは雪景色の山道でジムニーを走らせていた。札幌の自宅から約一時間半。三笠市街を抜けると、いかにも鹿やクマが多そうな田舎道に入る。札幌より一足早く雪が積もっている。除雪(じょせつ)はされているが、登り勾配のためマチは集中を強いられた。車がせめてジムニーでよかったと思う。タイヤが雪の塊を踏み、助手席に置いた紙袋がガタンと揺れた。駅前の百貨店に開店と同時に駆け込んで買った、限定の最中詰め合わせが入っている。

 佐藤綾子(さとう あやこ)さんに会いに行くことを、マチは新田に連絡した。堀井銃砲店のお婆さんに会うことを勧められた、という旨をメッセージで送ると、『いいと思う。話すと楽しい人だから、色々教えてもらうといい。新田がよろしくって伝えて』と軽い返事がきた。心にもやもやを抱えていることは、マチは新田に伝えられていない。けれど、もしかしたら気づかれているかもしれないな、とも思っている。あの痩せたクマの肉は、新田も少し持ち帰ったのだ。

 どんな人が、どんな話をしてくれるのか。考えながら運転していると、二百メートルほど先のカーブ横で、五頭ほどの鹿がたむろしているのが見えた。角はない。メスの群れかな、とマチは思った。今日は銃を持ってきていないし、そもそも道路沿いにいる鹿を撃つなど言語道断(ごんごどうだん)だ。せめて車と接触しないように通り過ぎるしかない。

 鹿たちは車が近づいているにもかかわらず、のんびりと道路脇の斜面に生えた枯草(こそう)を食んでいる。マチはスピードを落として脇を走り抜けようとした。それまでジムニーの存在を無視していたような彼らが、突然頭を上げる。中でも一番体格と毛ヅヤのいいメスが、慌てたように道路を横切り逃げ出した。マチはこの時点でブレーキを踏み、完全に車を停止させる。

 残りの鹿は一瞬迷ったのち、一頭ずつリーダーに倣う(ならう)ように道路を横切っていった。最後に、体格の細い個体が道路上で戸惑ったようにうろうろしている。

「早く行きなよ、もう」

 マチがたまらずクラクションを鳴らすと、小さい鹿は慌てたように逃げ出して群れと合流した。まったくもう、とマチはため息を吐く。こっちは撃つつもりはないんだから、車とぶつからないようにさっさと渡ってくれればいいのに。

 ハンターになる前のマチであれば、思考はここで終わりだ。北海道の地方部にうじゃうじゃいる鹿に対して、運転の邪魔、交通事故のリスク、としか考えない。

 ただ、ハンターになった今はまた異なる見方を抱いている。

 マチは農家と縁がない。だから、鹿による農業被害というのは報道を通じてしか実感できなかった。だが、先輩ハンターの話を聞いたり、実際に狩猟に行って農地で立派に育った野菜や牧草(ぼくそう)を鹿が食い荒らしている様子を見て、食害の酷さと農家の人たちの苦労を知ることになった。今走っている地域のように、川沿いに農地が開けている場所であれば、鹿の被害も多いだろうな、と自然に考える。

 そして、山の中で彼らに遭遇したなら、どれを狙うのが一番いいかを考える。撃ちやすいという意味では最後のとろくさい鹿が一番いいのだろうが、いかんせん細い。

 それに比べて、最初に逃げて行ったリーダーらしきあの鹿は、肩の肉も尻の肉もむっちりと盛り上がっていた。肉としても、狩猟の対象としても、いい鹿だと思う。

 鹿に関しては、マチはこうしてハンターとしての目で個体を見極められるようになってきた。クマも、追い慣れて、撃ち慣れていけば、ある意味良し悪し(よしあし)というような分別がつくようになるのだろうか。

 雪道(ゆきみち)に苦戦しつつ、頭の片隅でそんなことを考えていると、ナビの人工音声が『前方三百メートル先、右側、目的地です』と告げた。

 目的の場所には、平屋で木造の古い家と、機械用の倉庫らしき建物が建っていた。住宅の横には古い軽トラック。その周りには今は雪に覆われた畑が広がっている。典型的な古い農家、という感じだ。

 時間は約束をしている午後二時の五分前。ほぼ予定通りに、マチは住宅の脇に車を停めた。車を降り、サイドミラーで自分の格好を確認する。

 あとはベストと帽子を被れば狩猟に行けるような、動きやすいアウトドアウェアだ。ハンターの先輩のところを訪れるのに、フェミニンな格好も何か違うし、といつも通りのラフな(ROUGH)装いを選んだのだった。

 マチはスマホの音をオフにし、助手席から紙袋を出して中身が入っているのを確認した。いつになく緊張している。

 インターホンを押すと、電池が切れているのか音がしない。仕方なく、戸の外から「ごめんくださーい」と大きな声を出した。

 たっぷり一分してから、軽い足音が近づいてくる。

「鍵あいてっから、入ってきなー」

 確かに老女らしき、しかし張りのある声に促されてマチは引き戸(ひきど)を開けた。