第18回 河﨑 秋子 2025/01/08
夜明けのハントレス
【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、狩猟雑誌を読んで狩猟に惹かれ、猟友会会長の新田に教えを乞いながら狩猟免許を取得した。そして就活も終え、マチのハンター二年目の猟期が始まった。マチはそれまでグループで鹿撃ちをしていたが、単独猟を経験するため初めて一人で入った山でクマに遭遇(そうぐ)。そのクマを仕留めるが、それは小さくて痩せたクマだった。
初めて自分で撃ったクマ。マチは小川の加工場で解体されたそれを、肉の塊ひとつと牙一本の形で持ち帰った。
解体に時間がかかったため、自宅に到着したのは夜十一時を回っていた。クマを撃ったこと、遅くなることは家族のグループLINEで伝えておいた。
「ただいま」
「おかえり!」
まず玄関まで出迎えてくれたのは、弟の弘樹だった。昨年高校に進学し、とうとうマチの身長も抜いたが、好奇心を隠さない表情でマチが持つクーラーボックスを見ている。
「おー、おかえり。大変だったな」
「ご飯食べたの? 吉田さん、おにぎりと豚汁(ぶたじる)作っておいてくれたよ」
続いて出てきた両親を前にして、マチは少し膝の力が抜けそうだった。今まで幾度も猟に出てきたというのに、家族の顔を見てこんなに安堵(あんど)したのは初めてのことだった。
「ただいま。とりあえず、疲れたからシャワーあびようかな」
かろうじてそれだけ絞り出すと、マチは銃を自室のガンロッカーに戻し、浴室へと向かった。
「すげー、これが姉ちゃんがとったクマの肉? なにこれ、牙? 爪? でけえー!」
弘樹の感嘆の声が廊下にまで響いてくる。その呑気な声が、やけに耳に煩かった(うるさかった)。
クマの肉は翌日、岸谷家(きしだいけ)の夕飯に供せられた(きょうせられた)。
実は今まで幾度か、マチが仲間のハンターからもらったクマ肉を家族で食べたことがある。新田のおすすめで、すき焼きかサイコロステーキにしていた。いずれも牛肉の癖と旨味を強くしたような味で、マチと弘樹は特に気に入っていた。
だからこそ、今回はマチが初めて自分で得たクマ肉、ということで家族の期待は高かった。両親は仕事を早く切り上げて帰宅し、弘樹は家庭教師に頼んで予定を一日ずらしてもらったという。家事代行の吉田(よしだ)にも臨席してもらい、五人で食卓を囲んだ。
料理はシンプルに焼肉にした。持って帰ってきたのが癖のない背肉(せにく)だったので、味を確かめるには一番いいだろう、という吉田のアドバイスに基づいた。
肉を切るのはマチが自ら担当した。こうして、塊肉(かたまりにく)として自宅のまな板の上に転がっていると、スーパーで売られていてもおかしくない。
山の中で息を潜めて動向を探ったあの黒くて毛深い生き物の気配も、加工場で皮を剥がれた動物の名残も、ここには残っていなかった。
包丁の刃(じん)を押し当てると、肉は少し、柔らかかった。マチが記憶する、もらいもののクマ肉よりはやや色が薄い気がする。血抜きを忘れていたのなら普通もっとドス黒くなりそうなものなのだが。それとも、痩せた個体の肉はこうなるのか。
肉とともに残された皮下脂肪(ひかしぼう)ごと、厚さ二、三ミリ程度にスライスし、なるべくきれいに大皿に並べると、さらにクマの気配は薄れた。
なぜか吉田が『せっかくですから』と、食器棚の奥にあった古伊万里(こいまり)の大皿を引っ張り出してきたものだから、余計クマの肉に見えないのかもしれないな、とマチは気を取り直す。
自分が撃った経緯はともあれ、こうなるともう立派な肉なのだ。食べるしかない。食卓で待ちわびる家族の明るい表情を見ると、マチの心も少し浮上した。
異変は、鉄板の上に載せた時に起こった。
臭い。
じゅうじゅうと、熱せられた鉄板の上で脂肪がとけ、赤身に熱が通り、たんぱく質が焼ける匂いが立ち昇る。
それが、ひどく臭いのだ。鹿とも羊(ひつじ)とも、ましてや今まで食べたクマとも違う獣臭(けものにおい)が湯気(ゆけ)と共に部屋に満たされ、それぞれの鼻の粘膜に張り付いていく。
「あれ、こんなニオイだったっけ」
「前に食べたのと違うね」
「めっちゃケモノって感じ」
両親と弟は戸惑った表情を見せている。今日は客である吉田も、不安そうに鉄板の上を凝視していた。
マチは最初に乗せた一枚を、中までちゃんと火が通っているか確認し、塩こしょうを振った。
口の中に入れると、途端に強い獣臭(けものにおい)が鼻にぬける。そして、噛むたびにその臭いは強くなっていく。嗅いだ(かいだ)ことのない臭気だが、たとえるならば、古い犬小屋の臭いを凝縮したらこんな感じなのではないかと思った。思わず、鼻で息をするのを止めて早々に飲み込んだ。
マチが最初に箸をつけたことから、他の面々もそれぞれ肉を噛みしめている。皆、うすい皺が眉間(みけん)に寄っていた。
「姉ちゃん、ごめん」
弘樹が心底申し訳ない、という声を出して、箸を置いた。
「俺はこれ、むり」
「あー、うん、仕方ないよ。無理しないで、野菜とか食べなよ」
マチは気にしていない、という風に一緒に焼けた野菜を弘樹の皿に入れてやる。吉田が「そうだ」と声を上げて席を立った。
「冷蔵庫に、頂きもののハムとかソーセージがありますので、私ちょっと持ってきますね」
「あ、うん、ありがとう吉田さん」
「冷凍庫に取引先からもらった白老(しらおい)牛(ぎゆう)もあるはずだから、レンジで解凍してくれるかな?」
父も、口直しをするように赤ワインを口にしていた。マチは、鉄板に残っていた一枚を箸で摘まむ(つまる)と、口に入れた。
「マチ、無理しなくても」
すかさず母が心配してくれたが、マチは首を横に振って咀嚼を続けた。やはり臭い。
プロである小川が解体して食用に肉を渡してくれたということは、食べても問題ないものではあるのだろう。しかし、やせ細り、弱っていた個体の肉というのは、ここまで質が下がるものなのだ。
でも、焼いた分は食べる。そして、この味を私は覚えておかなければならない。これは、撃たれるべきではなかったけれど、私が撃ってしまったクマの味だ。この不味さを、私はちゃんと覚えておくんだ。
マチがくどい脂と共に肉を飲み下すと、ちょうど吉田が代わりの肉類を持ってきてくれたところだった。
そこからは、何事もなかったかのように皆で食事を続けた。クマの脂が焦げた悪臭(あくしゅう)は消え、満腹(まんぷく)と満足だけが食卓に残る。
食後、マチが片づけをしていると、吉田がそっと耳打ちした。
「マチさん。残りの肉、どうされますか」
吉田の手にはクマの肉が載った古伊万里(こいまり)の大皿がある。肉が数枚分とられた間から見える、鮮やかな赤がみじめだった。吉田としては、この皿を選んでしまったことに申し訳なさを感じているのかもしれない。
マチは、捨てちゃってほしい、とはどうしても言えなかった。
「保存袋に入れて、冷蔵庫に保存お願いできる? 明日煮て、私が全部食べるから。大和煮って砂糖としょう油と酒で味濃く煮つければいいんだっけ」
吉田は少し戸惑ってから、「パントリーに生姜がありますから千切りにしてたっぷり入れるといいですよ」と教えてくれた。
次の週末、マチは新田たちと鹿撃ちに行く約束を断った。
先週、クマを撃って以来、ぐるぐると余計な考えが渦を巻いて止まらない。四年生になって数少なくなった講義に出席していても、あれがベストだったのか、他に選択肢はなかったのかと考えてばかりいる。この状態で狩猟に出かけるのは、良くない気がした。
とはいえ、何もしないで過ごすのも心穏やかではない。マチは日曜日に早起きすると、銃をバッグに入れてジムニーに乗り込んだ。
目指すは、札幌から北東へ車で一時間半ほど走ったところにある射撃場(しゃげきじょう)だ。射撃の練習やスコープの調整などでたびたび訪れてきた場所だ。
無心に練習したい。そう思って射撃場に行ったのに、結果は散々なものだった。照準やスコープに問題があるわけでもないのに、とにかく手がブレる。
円形の的を狙う射撃練習では、的に描かれた線を基準として、手元のブレがよく分かる。
息を吸い、吐き、眼圧が高くなるのではないかと思うほど意識を目に集中しても、狙いというのはピタリと止まってくれるものではない。動く照準を、それでも「ここに当たってほしい」というポイントの一番近くにきた時に引き金を引くのだ。
射撃場で知り合った、元ビームライフルの国体選手というハンターは、自分たちのレベルでもピタリと止まることはない、と言っていたので、そもそも射撃というのはそういうものであるらしい。
それを、精神力で無理矢理にでも集中していくわけなのだが、マチは今回、集中しきったと思っても手のブレが大きかった。成績でいえば、免許とりたての時の方がまだよかったほどだ。
今日はダメだ。
マチは三十分ほどで見切りをつけた。これ以上は無駄撃ちだ。なんの成果もないまま万札(まんさつ)を消していくことにはなんの意味もない。むしろ落ち込みがひどくなるだけだ。
今日の私は、たぶん、ハンターに向いていない私だ。そう己にダメ出しをして、道具を片付けにかかる。勉強や運動でもそうだ。根をつめてダメな時は、開き直って他のことをした方がいい。
車に戻り、運転席でふー、と息を吐く。白黒で印刷された的を見ると、どれも狙った中央から外れたところに穴が開いている。しかも、右寄り、左寄り、といった癖や法則以前の、バラバラな外し方だ。
「へたくそ」
マチは呟いて、愛用のリュックに紙を突っ込んだ。ついでにスマホを見ると、猟友会のグループLINEは今週末も成果の報告が続々と上がっていた。なにせ人数が多いので、マチは普段通知を切り、気が向いた時だけ見るようにしていた。
今日は、会員の一人が日高の山の中でヒグマ(最大の食肉類でクマ科に属する哺乳類)を仕留めたそうだ。
送られてきた報告写真には、地面に横たわる大きなヒグマと、その隣に寝転んで嬉しそうに笑う初老の男性ハンターが写っている。晴れやかで、誇らしげな笑顔だった。そしてその隣のクマも、立派な体格と毛ヅヤをしている。
こういうクマの肉なら、美味しいのかな。
マチは無意識に鼻先を拭った。例のクマは大和煮にしてマチが数日間をかけて全て平らげた。味の濃さと吉田のアドバイスで入れたたっぷりの生姜のおかげで焼肉の時ほどの臭みはないが、それでも噛みしめるたびに自分の至らなさを思い知らされる気がした。
違う気晴らし、違う気晴らし。
そう考えながら札幌の自宅へと車を走らせていたマチは、ふと思いついて幹線道路を左折(させつ)した。
目指すのは堀井銃砲店だ。銃弾以外に買い足すものはないし、新しい銃を購入する余裕も予定もないが、何か新しいギアでも見れば、それを持つのを目標に気持ちが切り替えられるかもしれない。
「こんにちはー」
挨拶をしながら店内に入ると、「いらっしゃい」と書類から顔を上げた店主と目が合った。途端に、「あれ」と意外そうな顔をされる。
いつも大学帰りに寄る学生スタイルでも、猟に行く前に寄るハンターの格好でもなく、動きやすさ最優先のスポーツジャージだったからだ。
「今日は猟に出たんじゃないの」
「ええ、ちょっと、射撃場に行ってきたところで」
マチは自分の格好を見ながら、頷いた。促されるままに、ほぼ定位置になってきた大テーブルの一角に陣取る。
「新田さんから聞いたよ。初クマゲット、おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
淹れてもらったコーヒーを受け取りながら、マチは頭を下げた。
「にしては、元気ないね。新田さんも心配してたよ」
「ええ、まあ。なんていうか……」
そこからは、止まらなかった。マチは向かいに座った堀井に対して、とりとめなく今の考えをさらけ出した。
出くわしたクマを撃ったことが正しかったのか。他にやりようはなかったのか。そして、そのクマ肉の味の悪さゆえに、余計間違いだったのではないかと考えてしまうこと、など。
一通り話し、マチはコーヒーの存在を思い出して一気に飲み下した。ぬるくて苦い液体が、渇いた喉を潤していく。格好悪いな、とマチは自分の未熟さを思う。堀井だって、こんな形で愚痴られても仕方がないだろうに。
謝るために頭を上げると、堀井の隣の席にはいつの間にかお婆さんが座っていた。いつものように上品な座り姿で、手編みらしいグリーンのショールを肩にかけている。
およそ銃砲店には似合わないような穏やかな顔で、マチのことを見つめていた。
「いろいろお悩みのようだけれど。それでも、あなたがクマを撃てたのは、良いことなんだよ」
お婆さんの言葉に、マチは小さく「でも」と返す。その続きが言葉になる前に、お婆さんはテーブルの上で両手を組んだ。
「しかもそれが、相手がガレたクマで、安全に、怪我することもなく、一発で仕留められた、ってことは良いことなんだよ」
「撃たなくてもよかったかもしれないものを撃っちゃったとしてもですか?」
「うん」
お婆さんの頷きは深かった。マチは納得できない。
「反省(はんせい)は大事。でも、うちに来るハンターに限らずだけど、鉄砲撃ちはみんな忘れがちなんだよ。もっと悪いことが起こりえたんだ、ってこと」
「もっと悪いこと?」
そう、と頷いたお婆さんの目は、柔らかく細められている。しかしその奥の瞳が、ひどく鋭くマチを捉えて(とらえて)いた。