夜明けのハントレス 第10回 河﨑 秋子 2024/11/07

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、恋人の浩太(こうた)の家にあった狩猟雑誌を読んで狩猟に惹かれ、銃砲店を訪れる。店主の堀井から紹介された猟友会会長の新田に誘われて、父と共に新田の事務所を訪れ、狩猟を始めるまでの手続きを教えてもらう。マチが狩猟免許を取ることにしたと浩太に報告すると、彼からは「ごめん」と距離を置くようなLINEが届いた。

 浩太と別れた後、マチは目の前のことに没頭した。貯金のためのジムのバイト、就活の下準備(したじゅんび)。旅行サークルは意地を捨ててさっさと退部した。

した 語構成の区切り じゅんび アクセント 【下準備】前もってしておく準備。あらかじめする準備。

 友人のえみりも、もうサークル活動とメンバーにうんざりしていたらしく、LINEで打ち合わせて共に退部した。夏休みはお盆に稚内(わっかない)の実家に帰ることもなく、カフェのバイトのシフトを詰め込んで生活費と学費を稼ぐ予定らしい。マチは狩猟のこと、浩太と別れたことなどをゆっくり報告したかったが、お互い講義の前後に深く話をする時間はなかった。そのまま試験が終わり、夏休みに入った。

 LINEではえみりがしばしば疲れとバイトの愚痴(ぐち)を訴えてくる。マチは主に聞き役に回り、結局、自分の事情については話の合間に短文(たんぶん)で告げただけだった。

『別れちゃったかー、メンタル落ちてたらいつでも電話して』

『は? マチがハンターになるから? 初耳(はつみみ)なんですけど? え、大丈夫?』

『お父さんの知り合いなんだね。疑うわけじゃないけど、男の人と山に入るんならスマホ手放さない(てばなさない)ようにね』

『今度会ったら深掘り(ふかぼり)させてもらうから。体に気をつけて』

 えみりの返事は簡潔ながら心配してくれる気配が漂っていて、夏休みが明けたらちゃんと説明しよう、とマチは心に決めた。

 猟期に入ったら見学に連れて行ってもらうという新田との約束に先立ち(さきだち)、マチはバイトの合間にハンターになるための行動を開始した。

 まずは初心者講習(しょしんしゃこうしゅう)にあたる猟銃等講習会だ。ネットで調べ、札幌では月に一度は行われていることが分かった。少し考え、両親に承諾を得て、現場に見学に行く前に受講しておくことにした。銃の基本的な扱い、安全のために配慮すべき点などをきちんと頭に叩き込んでからの方が、現場でどんなことが行われているのか理解しやすいだろう、と思ったからだ。なにより、興味のある分野をよりよく知りたい、という欲求(よっきゅう)が自分の中に渦巻いていた。

 マチは早速(さっそく)、新田のアドバイス通り、自宅最寄り(もより)の警察署まで申込書(もうしこみしょ)を取りに出かけた。生活安全課の窓口で「あの、猟銃の初心者講習の申込書を……」と無表情な男性警官に告げた。

 何か、不審がられるだろうか。動機や目的などを聞かれるだろうか。一瞬そう危惧(きく)したが、警官は一転して愛想笑いをして「はいどうぞ」と関係書類を渡してくれた。

 マチはすぐに一番近い日程を申し込み、当日、市の中心部にある施設の会議室で講義を受けた。会場は市民団体や学生団体の会合や行事によく使われる施設で、マチも高校生の頃、運動系部活の交流会で一度来たことがあった。まさか同じ建物で、猟銃を持つための講義を受けることになるとは思わなかった。

 あらかじめ本屋でテキストを購入して読み込んだ甲斐もあって、内容は難しいものではなかった。新田の言う通り、銃を持つうえで安全面で心がけるべきこと。その基本を頭に叩き込んでおいたので、筆記試験も特につまることなく回答し、無事に合格した。

 まずは、最初の一歩をクリアできた。試験に受かるというのはどんなものであれ努力が報われたようで気分がいい。会場から自宅に帰るためにロードバイクを走らせていると、どんな向かい風も上り坂(のぼりざか)も、今のマチには味方に思えた。

 十月となり、狩猟解禁日(しゅりょうかいきんび)を迎えた。これからは害獣駆除(がいじゅうくじょ) ではなく狩猟として鹿を撃つことが可能となる。

 新田が指定した日は、十月の第一日曜日だった。暦の関係で日付は二日。翌日は大学の後期日程開始日だ。見学の感想を久々に会うえみりに直接伝えられる。マチはタイミングの良さに気を良くした。

 前日の夕方、スマホに新田から写真が送られてきた。熊野が地面に横たわった大きな鹿の傍らにしゃがみこんでVサインをしている。コメントで『今年の初獲物、撃ったのは熊ちゃんじゃなく俺』と説明があった。熊野と山に入り、初日早々に鹿を仕留められたということだ。マチはまだ免許もない身だというのに、「いいなあ」と感想が口を突いた。明日、自分もこの現場に行けるのだと思うと、早めにベッドに入ってもなかなか眠れなかった。陸上時代の指導者のアドバイスをもとに、眠れなくても瞼を閉じて体力の温存を心がける。階下(かいか)から聞こえる家族の生活音に耳を傾けているうち、穏やかな眠りが訪れた。

 翌朝午前三時、まだ暗い中(くらいなか)を約束通り新田が迎えにきた。リビングで待っていたマチは車の音を聞きつけると外に出て出迎える。いつの間に起きていたのか、後ろから寝間着姿の父がついて来た。

 新田の車は国産の大型RV車で、後部座席には熊野が乗っている。車から降りた二人はオレンジ色のベストとキャップを身に着けていた。それがハンター用のものだと学んだマチは、その鮮やかな色が羨ましく思える。父娘は揃って深く頭を下げた。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

「危ないことをしそうになったら、容赦なく叱ってください。娘をよろしくお願いします」

 ちょっと過保護なのでは。マチは父の言い分が引っかかったが、言葉にはしなかった。新田と熊野も挨拶を交わし、マチは助手席に乗るよう促された。

「じゃ、行こうか」

 新田の軽い合図とともに、車はまだ薄暗い住宅地を出発した。目的地は夕張(ゆうばり)の山中だという。

夕張市(ゆうばりし)は、北海道中部の道央地方に位置し、空知総合振興局(そらちそうごうしんこうきょく)に所属する市。

「昨日、知り合いの私有林に入らせてもらったら、それなりに鹿いたからさ。同じ場所を狙うよ」

 新田は運転しながらマチに告げた。

「写真に写ってた鹿ですか。あれ、あの後どうしたんですか?」

 マチの質問に、後部座席にいた熊野が答える。

「あの後、俺が仕留めた一頭と一緒に知り合いのハンターがやってる加工所に持ち込んだよ。シーズンのはしりは、ジビエとしての需要も高いしね」

 へえ、とマチは意外に思った。

「季節の初物(はつもの)は自分で食べる、みたいなのを想像していました」

「まあそういう人もいるよ」

 新田はそう言って続ける。

「人によっては獲った肉は全て自分で食べる、って決めてる人もいるし。我々はタテヨコナナメの繋がりがあるから仲間にそういう融通をするのが普通になってるっていう話」

「なるほど」

 新田の穏やかな話に、マチは納得した。狩猟の動機と同じで、獲物の肉に対してもスタンスはそれぞれらしい。

 自分はどういうタイプになるのだろう。それは今日の見学で分かるのだろうか。東に向かう車に揺られているうちに、空と地面との境は少しずつ明るさを増していった。

 目的の山中には午前五時前に到着した。農家がある沢沿いの道を走り、十分ほど砂利道を走ったところで駐車できるスペースに車を停める。空は少し明るくなり、木々の間をカラ類の野鳥が動き回っているが、まだ太陽は昇っていない。新田の説明によると、今の日の出は五時半ごろなので、その前に鹿がいそうなポイントに近づいておくとのことだ。

「準備いい?」

「はい」

 朝食代わりのコンビニおにぎりと水分を補給し、山に入る準備は整った。マチは動きやすさを考え綿のパンツにネルシャツという服装で来ていた。新田にあらかじめアドバイスをもらった通り、リュックには水、ナッツとドライフルーツの行動食、タオルなど、野外活動をするうえで基本のものを詰めていた。格好に不足はないはずだが、狩猟用のベストとキャップ、そして肩に銃を担いだハンター二人に挟まれると、どうも自分が場違いのような気がして居心地が悪い。

「うん、大丈夫そうだな。あとはダニよけスプレーをかけて完了っと。暗いけど気を付けながら山に入るよ」

「はい」

 新田の落ち着いた声に、マチは真剣に頷く。シーズン初めにもかかわらず、浮ついた様子のない二人の姿が素直に頼もしかった。彼らにとっては『いつもの』幕開けなのだ。

「山の中に入って、私は何に気を付ければいいですか」

「んー」

 マチの質問に、新田は少し考えてから答える。

「特別なことはあんまりないよ。スマホで不用意に光や音を出さないように、とか、転んだ時のために両手空けておくように、とか、山歩きと基本同じ。あなたキャンキャン言いそうにもないしね」

「キャンキャン?」

「虫が出てキャーとか、疲れたもう歩けないー、とか。でもだからこそ、やばそうな虫にさされたとか、怪我したとか、疲れてこれ以上の行動は厳しいとか、そういうことがあったら隠さず都度ちゃんと教えるように」

「はい」

 一転して真剣な新田の声に、マチは唾(つば)をごくりと飲み込んだ。余計な我慢も虚勢も、危険となりうる場所にこれから行くのだ。

「あと、そうだなあ」

 幾分のんびりした口調で熊野が肩から下げた猟銃を指した。

「初心者講習受けたんなら大丈夫とは思うけど、銃を持ってる人間の前に不用意に出ないようにね。装填した後は特に。たとえ成果がゼロでも、元気で怪我なくおうちに帰るまでが狩猟です」

「はい」

「他には、まあ、リラックスすることかな。変に緊張して筋肉が強張ると、コケたりするし」

「熊ちゃん前科あるから説得力が違う」

 ははは、と楽しそうに笑う二人に合わせて微笑みながら、実際、マチは緊張していた自分に気付いた。ほぐそうとしている熊野の心遣いに感謝する。

「いつもはライフル使うけど、今回は俺は散弾銃、新田さんはハーフライフル持ってきたから。岸谷さんが免許とった時の参考にするといい」

「はい、ありがとうございます」

 ライフルは散弾銃を所持してから基本十年経過しないと持てない、長い射程をもつ銃だ。散弾銃、ハーフライフルに比べて明らかに有利だが、マチが初心者として手にする二種の銃をわざわざ持ってきてくれたのだ。二人の気遣いに感謝した。

 熊野、新田、マチの順で山道を外れて獣道(けものみち)のような藪(やぶ)の中を歩いていく。

 夜明け前の森は露でしっとりと湿っていた。二人の足元はホームセンターで売っているような普通の長靴(ながぐつ)だ。

 マチはトレイルランで愛用していたシューズを履いていた。履きなれているのと、藪で濡れても気にならないことから選んだが、正直、失敗したと思う。足場の悪い山道でも走れるように作られているシューズであっても、一歩道を離れると途端に藪には適さなくなる。足の甲の生地が露を吸って靴下が湿ってくるのが分かった。

 朝の森は静かだ。そして、マチの家の近所にある円山公園とは比べ物にならないほど木の匂いが強く漂っている。風はないが、枯れて枝から離れたナラやホオの葉が時折カサリと音を立てた。木々の間を埋めるクマザサは秋で葉の先を茶色く色づかせているが、枯れるまでには至っていない。

 熊野と新田は肩から銃を下ろすことも、きょろきょろと周囲を確認することもなく森を進んでいく。ここは獲物が出るポイントではないのだろう、とマチは最後尾から様子を観察した。時々、ついてきているか振り向いて確認する新田と目が合う。遅れをとらないマチの足取りに『まだいけそうだな』と安心するような表情に、体を鍛えていてよかったと思った。

「事前に言われたように熊鈴は持ってこなかったですけど、大丈夫ですか」

 マチはふと疑問を口にした。この人たちが初心者を連れてきたということはクマの出ない区域なのだろう、と信頼はしているが、一応聞いておきたい。

「まあ、熊鈴あるとどうしても獲物が動いた音とか聞き逃しちゃったり、逃げられたりするからねえ」

 新田が前を向いたまま続けた。

「心配しなくてもクマはこの辺にはいないよ。生息地域はもっと山奥だから。ま、移動することもあるから絶対じゃないけど、少なくとも昨日来た時には痕跡はなかった」

「痕跡っていうと」

 新田は傍にあったナラの木を指した。

「爪で引っかいたり、背中をこすりつけたりの痕がない。あとは、糞とか、藪が切れたところの足跡、今の時期ならコクワやヤマブドウの枝を引き寄せて折った跡とかね」

 言われてみると、公園と比べ物にならない密度の森でありながら、大きな力を持った動物に木が荒らされた様子がない。

「なるほど……具体的ですね。もっと、雰囲気とか、気配とか、第六感みたいなものかと思ってました」

「それもあるよ。でも、そういうのに頼りすぎると目で確認することを怠っちゃうから」

怠る 【おこたる】 (v5r,vt) (1) to neglect; to be negligent in; (1) あなたは「ありがとう」と言うことを怠った。 You neglected to say "Thank you."[Amend]

 プロフェッショナル、とマチは思った。別にそれで食べている訳ではないが、蓄積された経験と技術、そして高度な心構えという意味で、目の前の小柄なおじいちゃんは間違いなくプロだ、とマチは思った。

「怖い、とか思う?」

「いえ」

 背中ごしの新田の問いに、マチは首を横に振り、かつ声で明確に返事した。

「同じフィールドに立っている、と思います。でもだからこそ、まだ何も持ってないのは、やっぱり心許ないです」

 マチは前を行く二人の銃を見た。事故防止のために今は銃口を空に向けて背負われた銃を持つ二人が、とても頼もしく見えた。