夜明けのハントレス 第7回 河﨑 秋子 2024/10/17

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは恋人の浩太の家で狩猟雑誌を見つけ、狩猟の世界に惹きつけられる。大学近くの銃砲店を訪れたマチは、店主の堀井から、たまたま客として訪れた猟友会会長の新田を紹介される。話をしてみると、彼は父の会社の取引先である新田工作所の社長だった。帰宅すると、マチは思い切って父に狩猟に興味があることを打ち明ける。

 狩猟や猟銃に興味があることを父に打ち明けた後、マチは自室に戻るなり全身をベッドに投げ出した。マットの振動に合わせるように息を吐くと、同時に体の力も抜けていく。

 緊張してたんだ。

 マチは自分の心身の反応が意外だった。父は頭ごなしに反対するような人ではないとは分かっていた。とはいえ、陸上をやりたいとかトレイルランに転向したいという今までの自分の願望とは種類が異なる。受け入れてもらえるか、マチは自分が意外と心配していたことに気付いた。

頭ごなし 【あたまごなし】 (adv,n) (usu. as 頭ごなしに) ━ ごなし アクセント 【頭ごなし】 相手の言い分も聞かずに,初めから一方的にきめつけた態度をとること。 「 ─ にどなりつける」unsparingly; without listening to the other party; without giving the other party a chance to explain

 トレイルランでいえば、この急傾斜を越えたところに荒い岩場が続くと想定していた先が、ただの林道(りんどう)だったような。そんな、不安とある種の期待が幻と消えたような脱力感があった。

 ただ、その先は濃い霧がかかっているのがここからでも見える。この先に自分の目指すゴールがあるのは分かっているが、地形に関する情報が一切ない。わざと途中の詳細を消されたルートマップを渡された気分だった。

 先が見えない不安がよぎる。そのざわざわする感じがどこか心楽しくて、マチはわざと不敵に笑った。

ふ 語構成の区切り てき アクセント 【不敵】( 名 ・ 形動 ) 文語形 ナリ (敵になるものがないかのごとく)大胆で恐れを知らないこと。また,無法で乱暴なこと。また,そのさま。 「大胆 ─ 」 「 ─ な面構え」 派生語 ━ さ ( 名 )

 さてどうなるかな。

 霧の先に何があるのか。急坂(きゅうざか)でも倒木(とうぼく)でも構わない気持ちでベッドに体を預けていると、ピピピ、と電子音が聞こえた。マチは面倒に思いつつ、ズボンの尻ポケットからスマホを出して画面を確認する。

『いまなにしてる?』

 浩太からのLINEだった。時間からみるに、仕事を終えて自宅に帰った頃だろう。恋人にメッセージを送るのにおかしな時間帯ではない。

 父親に狩猟に興味あるって打ち明けたら案外好感触で驚いてるとこ。

 えみりにならそう送れただろう。しかしマチは少し考えて返事の言葉を送った。

 えみりにならそう送れただろう。????

『バイト終わって家でごろごろしてたよ』

 嘘ではないけど、事実でもない。狩猟に興味があることを浩太に話すなら、もっとちゃんと、少なくとも面(おもて) と向かった機会にしたい。そう考えて、マチは無難な返事を送信した。

『仕事おわったの? おつかれ』

 先送りにした打ち明け話が少し後ろめたくて、マチは相手を気遣うことに徹する。少しの間、浩太の仕事の愚痴と夏休みをとったらしたいことなどをやりとりした。

『てか、先より目先の話。来週の日曜の夜、空いてる?』

 車のディーラーに勤める浩太は、日曜日は必ず仕事が入っている。かわりに翌月曜日が休みのため、マチと会うのは日曜夜からの場合が多い。

 マチは寝転がったまま壁のカレンダーを確認した。特に用事はない。

『あいてるよー』と打つと、すぐに『どっかいこう』と返事がきた。大抵は、どこかで食事をして浩太の家に泊まり、翌月曜日に学校まで直接送ってもらう。

 いつもの流れ。狩猟について話すのであれば、その流れに任せるのがいいだろう。

 浩太は驚くだろうか。もともと狩猟雑誌を持っていたのは彼なのだから、もしかしたら父のように「自分も行ってみたい」とか、さらには同じ目標を持って狩猟に挑めるようになるかもしれない。

 そうでなくても、マチの方から一緒にやろうと誘ってみようか。ただ夜を共に過ごすのではなく、同じ環境に身をおいて、価値観を共有する。今まで浩太と感じられなかった関係性を築くきっかけになるかもしれない。次に会う予定がこれほど楽しみに感じられたのは、久々のことだった。

 父の義嗣に狩猟に興味があることを打ち明けてから三日後、マチのスマホに連絡が入った。

『こんにちは、堀井さんとこでお会いした新田です』

 シンプルな挨拶に続いたのは、うちの工場の事務所がハンターたちの情報交換の場になっているから、興味があるなら遊びにくるといい、という誘いの内容だった。

 ぜひ、と前のめりで返事を打ちそうになって、マチは指をとめ、父親に相談してから返事をすることにした。趣味と仕事は関係ないとはいえ、新田は父の取引相手でもある。話は通しておくべきだと判断した。

まえ 語構成の区切り のめり まへ ─ アクセント アクセント 【前のめり】 倒れそうに体が前方へ傾くこと。 「つまずいて ─ になる」

「ああ、新田さんのとこ。じゃあ、送っていくついでにパパも顔出そうかな」

 自分も猟に同行する、と言った時と同じように、父は何の迷いもなく返事をし、その週末に訪問が決定した。

 当日、猟に行くわけではないが、あまり浮ついた格好も望ましくない。マチは細身のジーンズにスポーツメーカーのブルゾン、スニーカーという動きやすい格好で父の車に乗り込んだ。くたびれたゴルフウェアの義嗣は、緊張を感じさせない様子で頷いた。

浮つく 【うわつく】( 動 カ 五 [ 四 ] ) 気持ちがうきうきして,落ち着きがなくなる。軽薄な感じがする。 「 ─ ・ いた気分で出掛ける」 「 ─ ・ いた風潮」

「こうしてマチ乗っけるのは久しぶりな気がするな。中高までは大会でニセコだ大雪(おおゆき)だ函館(はこだて) だって色々行ったけど」

 父はハンドルを握り、愛車を走らせながら言った。

「その節は毎度毎度、遠くまでお世話になりました。今回もありがとね、パパ」

「まあどうせ新田さんの工場の場所はよく知ってるし、娘が世話になるっていう挨拶もしたいしね」

 その言葉通りに、カーナビの目的地指定なしに車は迷いなく南区の郊外目指して走っていく。

「よく迷わないね」

「担当者と一緒に視察とか見学とかに行ってるからね。まさか娘を連れて行くことになるとは思わなかったけど」

 ふふ、と目を細める父親の横顔を見て、マチは言葉を選んでから口を開いた。

「ねえ。パパも狩猟の免許取りたいの?」

 シンプルな疑問だった。猟の見学に同行したい、と言い出した父だが、自分も免許を取る、とは言っていないし、これまでそちらの方面に興味があるようにも見えなかった。

「昔ね、そう思ったことあったよ」

 少しの沈黙の後に、イエスノーを明確にしないまま返事がきた。

「経済団体の関係で仲間に薦められたこともあって。まあ、おじいちゃんに反対されて、結局やめたんだけど」

「反対って、なんで?」

 ポラリス製菓の創業者にしてマチの曽祖父は、厳しい人だったとは伝え聞いている。だからこそ、反対の理由が気になった。

「人を使う人間が人に怖がられる道具を持ってちゃいけないって。ま、昔堅気の商売人だったからねえ」

昔気質; 昔かたぎ; 昔堅気 【むかしかたぎ】 (n) (1) old-fashioned way of thinking; old-fashioned spirit; (adj-no,adj-na) (2) old-fashioned

「なにそれ」

 すっかり納得したように頷く父に向って、マチは呆れて声を上げた。経営者が猟銃を持ってはいけない、という繋がりがまったく理解できない。娘の憤慨を、父は「まあまあ」と宥めた(なだめた)。

「うちのおじいちゃんの代から、というかうちの家系、みんな背が高いだろ」

「うん」

 いきなり何の話だろう、とマチは首をかしげつつ相槌を打った。確かにポラリス製菓の創業者に連なる親戚は、みな背が高い。マチも平均身長である友人のえみりのつむじをいつも見下ろしている。

「まだ狸小路で小さな一号店やってた頃から、おじいちゃん、お客さんにお菓子売るときはかなり腰を折って頭を下げるように心がけてたそうだよ。パパも今の社長やってる兄貴も、入社してからはおじいちゃんや親父にかなりきつく指導された」

「なんで?」

「背が高いと、接客していてどうしてもお客さんを上から見下ろす格好になっちゃうからね。せめて人より深く頭下げないと、他の人と同じぐらい感謝しているようには見えない」

「頭(ず)が高く見えるってこと?」

「そういうこと。背だけじゃなくて、立場も高い者はより深く頭を下げよ。これ、岸谷家の裏家訓(うらかくん)な」

 赤信号で停車したタイミングだったので、義嗣は助手席を向いて真面目な顔で言った。マチも思わず頷く。今までそんな裏家訓を聞かされたことはないが、子どもが社会に出るころに叩き込まれることなのかもしれない、と思った。

「だから、人の上に立つ人間が、人を怯えさせる可能性のある道具を使う趣味を持つのはいかん、だってさ」

「納得できるような、できないような」

 商売に対する謙虚さは理解したが、狩猟や猟銃との繋がりはいまいち納得しきれず、マチは唇を突き出した。

「ま、パパは納得できたからあきらめたんだけど」

 うーん、とマチは腹の底にたまった感想を、あえてそのまま口にする。

「お商売が大事なのはよく分かるよ。でも、個人の問題としてさ、身長高いのはその人のせいじゃなくない? なのに、人より頭を深く下げるとか、趣味ガマンしなきゃいけないとか、余計でしかも重いタスク課せられるのって、なんか違わない?」

 マチは子どもっぽい考えだと自覚しながらも言葉にした。同時に、少し懐かしい気持ちになる。以前は大会の行き帰りに、悩みや愚痴をよくこうして父にこぼしていたことを思い出した。

「まー確かに、何もかも平均的な立場だったら背負わなくていいタスクだよ」

 マチの考えを叱ることも否定することもせず、以前と変わらずに父は受け止める。

「ただ、やんなきゃなんないことと考えずに、戦略と思えば、それは義務じゃなくて武器になるからね」

「武器」

 ふと出てきた単語を、マチは反芻する。今まさに猟銃という武器を手にする人たちに会いに行く中、まったく違う種類の武器について考える。

「うん。すごく柔軟な武器」

 これまでその武器で仕事をしてきたであろう父は、かつて自分が愚痴を投げかけた横顔よりも少し老け、そのぶん少し怖くも見えた。

 自宅を出て三十分ほど。隣の市との境界に近いところに、新田の工場はあった。門を入ったところで父は車を停める。年季の入ったコンクリート建ての工場は休業日なのか、人の気配はまったくない。ずんずん先を歩く父を追うようにして、マチも続いた。時間は約束した午前十時の五分前。ちょうどいい。

 工場建物の裏に、平屋建ての事務所らしき建物がある。その隣には、物置のようなプレハブがくっついており、プレハブの隣には泥まみれの黒いピックアップトラックが停まっていた。

「今日はたぶんこっちだな」

 義嗣がそう一人ごちてプレハブに向かうのを、マチも追った。プレハブのドアの横には、『関係者以外立ち入り禁止』と紙が貼ってあり、中から人の声が漏れている。

 父に目で促され、マチはドアをノックした。

「こんにちは、連絡しました岸谷ですー」

 はーい、という間延びした返事と、内側からドアが開けられたのは同時だった。仕事着なのか趣味用なのか、灰色の作業用つなぎを着た新田が目を細めて迎え入れてくれた。

「ああどうも、いらっしゃい。岸谷さんも、ご無沙汰してます、どうも」

「今日はありがとうございます。娘ともどもお忙しいところお邪魔します」

 父と新田は取引相手、というよりもただの知人のような雰囲気で互いに挨拶をした。とん、と軽く背中を押されて、マチが先にプレハブの中へと入る。

 まず目に入ったのは、ドア正面の壁にかけられた鹿の頭だった。古い旅館などにある、クラシカルでやや成金趣味な剥製にも見えるが、その角が普通と違う。本来なら左右対称にきれいな曲線を描いていたであろうそれは、人間が両手の指を合わせて握り込んだように複雑に絡み合っていた。

 部屋の中央に、今は火が入っていないダルマストーブが一つ。それを取り囲むように、古ぼけた長椅子がひとつとパイプ椅子が並んでいた。一番奥に、古い事務用机と椅子のセットがある。そこが新田の定位置らしい。

 新田の隣でパイプ椅子に座っていた人影が、慌てて立ち上がってちょこんと頭を下げた。小柄で四十代ぐらいに見える、笑いじわがある男性だった。

「あ、こちら、うちの猟友会のメンバーの熊野(くまの)くん。道庁の害獣対策の部署にいるんだよ」

「どうもー、まだクマ撃ったことない熊野です」

「あ、ど、どうも、岸谷万智です」

「どうも初めまして、マチの父です。よろしくお願いします」

 この自己紹介が鉄板なのか、熊野はおどけたような声で挨拶した。マチも慌てて返事をし、義嗣が続柄と挨拶を付け加えた。

 マチは新田に勧められて長椅子に座った。父は何も言わないまま、斜め後ろのパイプ椅子に腰を下ろす。にこにこと機嫌良さそうにしているが、余計なことは言わず、話の主導をマチに任せるつもりらしかった。こうなるとマチは渡されたバトンをきちんと握るしかない。改めて、熊野から渡された名刺を確認した。北海道庁のマークと、最後に『野生動物対策課』と書かれた長い部署名、そして『熊野仁志(ひとし)』という名前が記されている。新田は熊野の背中を親しげに叩いた。

「熊ちゃんも早くクマ撃って、クマ撃った熊野って自己紹介できるようになればいいのに」

 新田の気の抜けた言葉に、熊野はへらっと笑う。

「いやあ、俺は仕事が嵩じて免許取ったんで。積極的に撃ちにいくのは、よそさんに任せますよ」

「ほら、変わってんのよ、この人。若いのなんてクマ撃ってみたいってギラギラしてるぐらいがこっちとしちゃあ教え甲斐もあるってのに」

「役所の人間がクマに食われるとシャレになんないんですって」

 熊野はそう言って困ったように眉を下げた。冗談めかして言っているが、言葉には説得力がある。さっき立場によるありかたの違いについて話をされたばかりのマチは、神妙に話を聞いていた。