夜明けのハントレス 第6回 河﨑 秋子 2024/10/10

【前回までのあらすじ】札幌(さっぽろ)の大学に通うマチは恋人の浩太(こうた)の家で狩猟雑誌(しゅりょうざっし)を見つけ、狩猟の世界に惹きつけられる。大学の近くに銃砲店(てっぽうてん)があることを知り、外から様子を窺って(うかがって)いると、老婦人から店へ招き入れられる。店主の堀井(ほりい)も加わり(くわわり)、マチが狩猟に興味があることを話していると、一人の男性客が。新田(にいだ)は猟友会(りょうゆうかい)の会長で、猟期になったら鹿撃ち(しかうち)を見に来るようマチを誘う。

 初めて訪れた堀井銃砲店から大学に戻った後、四限目の授業を受けたマチはなかなか講義の内容に集中しきれなかった。

「四限目の授業」の読み方は「しげんめのじゅぎょう」です。意味は、「四限目」とは学校の授業の時間割において、4番目の授業を指します。通常、学校では1限目から6限目までの授業があり、「四限目」はその中の一つの授業時間を示しています。例えば、午前中や午後の特定の時間帯に行われる授業のことです。

 父の取引先の社長が常連だったという驚きもあるが、それよりも、ケースに整然と並ぶ猟銃(りょうじゅう)の数々。その直線的なフォルムが幾度も脳裏に蘇る。自分でも分かるほどに、マチは浮かれていた。

 それでも、給料が発生するアルバイトの最中は、マチは気持ちを切り替えることができていた。

 女性専用会員制フィットネスジムを経営する母から、パーソナルトレーニングのインストラクターを持ちかけられてから一年半。最初はスタッフから『オーナーの娘さん』という目でばかり見られていたが、長距離走とトレイルランで鍛え上げた体と身につけたトレーニング理論で、マチはすぐにスタッフにも会員にも認められた。

「フッ、フッ、はあっ」

 六畳ほどの個別(こべつ)トレーニング室に、人ひとり分の荒い息遣い(いきづかい)が響きわたる。額で玉になった汗が赤い頬(ほお)を伝って(つたって)マットへと落ちた。

「十秒経過(じゅうびょうけいか)。いいですよ、佐々木(ささき)さん。すごく頑張れてます」

 マチはしゃがみ込むと、細身(ほそみ)の中年女性に声をかけた。床に四つん這いになった姿勢から左足と右手をそれぞれ伸ばしている佐々木の背筋に触れる。

「ここの筋肉伸びてるでしょう。辛いでしょうが、効いてる証拠です。意識して伸ばして。肩周りの筋肉が柔軟(じゅうなん)になったら、肩こり予防になるし、立った時の姿勢も自然と綺麗になりますよ。あと十秒(じゅうびょう)。いけるいける!」

「はあいっ」

 このジムに通って二週間になる佐々木は、まだ関節(かんせつ)が硬く、体は細いが筋肉量も少ない。彼女が望む颯爽(さっそう)と歩ける体と体力を身につけるには、最低半年の継続的なトレーニングが必要だ。先は長いが、普段取り(ふだんどり)澄ましている顔を真っ赤にして筋トレに取り組んでいる様子を見るに、きっと脱落せずに続けてくれるとマチは判断する。銃砲店のことは意識から抜け、今は完全に佐々木の体の動きに集中していた。

「あと五秒。呼吸は止めず、筋肉を意識して。……三、二、一、はい終了です」

 終了、の言葉と同時に佐々木はぐったりと床に伏せた。機能性タイツとグレーのTシャツの色が汗で変わっている。

「一分インターバル(interval)で、今度は反対側。すごいです佐々木さん、前回より足高く上がってます」

「本当ですか!」

 佐々木は赤い顔を上げて破顔(はがん)した。パーソナルトレーニングの初回では「こんな若い子が先生?」と不審な顔を隠そうともしていなかったが、この二週間ですっかり打ち解けてくれた。

「実は、家事の合間にスクワット(squat)とかバーピー(Burpees)とか、ちょっとやるようになって。夫や子どもにはうざがられるんですけど」

「すごい。誰がなんと言おうと頑張れてすごいです。そのうえ、体がコツを掴むのが上手いんでしょうね」

 マチに褒められた佐々木は嬉しそうに笑うと、次の運動のためにまた四つん這い(よつんばい)になった。

 客からのマチの評判はかなりいい。特にコツはないが、トレーニング理論を噛み砕いて教えている他は、なるべく客を褒めることを意識している。とはいえおべっか(flattery)を使ったりおだてたりしている訳ではなく、真実思ったことを口にしているだけだ。もっといえば、かつて教えを受けた指導者のやり方で納得できなかった方法論の逆を実践しているわけだ。過度(かど)に厳しい物言いも、地に足のつかない褒め言葉も、モチベーションを引き出すにはただの邪魔だ。

「ではさっきと手足反対にして九十秒。はいスタート」

 合図とともに佐々木は真剣な目で前方を睨んでいる。やる気がある、いい眼差しだ。「がんばって」とマチは素直なエールを送る。

「お疲れ様でしたー」

 マチは講師用のロッカールームを出ると、ジムが入居している雑居ビルのエントランスへと足を早めた。途中、トレーニング個室のドアからは小さな窓越しにそれぞれ汗を流す女性たちの姿が見える。

 ここの会員費はけっして安くはなく、それゆえ経済的に余裕のある女性ばかりが通うが、資産なんてものを取っ払ってしまえば人間が持てるのはひとつの心とひとつの体だけだ。それぞれの年齢、体形、体力にもちろん差はある。しかし、笑みを浮かべる余裕もなく、ただひたすら体を動かす人の姿は、例外なくみな美しい。

 マチがさっき担当した佐々木も、二週間前に来た時はプランクで十五秒も体をささえられなかったが、今では四十秒に伸びた。小さいが確かな成長であるとともに、マチからアドバイスと応援を受け続け、表情と姿勢にハリが出たように思う。担当者としてはそれが何よりうれしい。

 マチはエントランスの横にある受付兼事務所のドアをノックした。どうぞ、の声に応じて中に入ると、一番奥の事務机で母の由美子がファイルと睨めっこ(にらめっこ)をしている。

「ママ、私レッスン終わったから先帰るね」

「うん、あらもうこんな時間。ママも一時間ぐらいしたら帰るわ」

 家事代行の吉田が来て夕食を作ってくれる日なので、母は積極的に残業することにしたようだ。マチは雇い主兼母が真剣に仕事をする横顔を見てから、部屋を出ようとする。

「そうそう、マチ」

 ファイルから目をそらさないまま、由美子が思い出したようにマチを呼び止めた。

「今日パパ会食ないって言ってたから、もう帰ってるんじゃないかな。相談事あるんなら、ちゃんと話しておきなさいね」

「ハイ」

 馴染みの会員に対するように柔らかい口調だが、その奥にある強制力をマチは受け取った。確かに、父にはどうせいつか相談はしなければならない。堀井銃砲店に行った今日は、うってつけのタイミングのように思えた。

 ビルの外に出ると、夜八時とあって周囲は暗いが、春の空気が汗ばんだ頬を撫でて気持ちがいい。マチは足取り軽やかに、建物裏手にある従業員用駐車場に向かった。隅の駐輪スペースに置いてある自転車のチェーンを外す。アメリカに留学中の兄・大だい樹き(だいだいきき)が置いて行った、少し古い型のロードバイクだ。マチはメンテナンスを欠かさないことを条件に使わせてもらっている。

 リュックから取り出したヘルメットをかぶって前後のライトを点けた。そこから自宅に向かう約三キロの上り坂(のぼりざか)に向けてペダルをこぎ出した。太腿の両面、臀部(でんぶ)、そして脹脛(ふくらはぎ)に意識して負荷をかけていく。ギアは軽めにし、早くペダルを回して心拍(しんぱく)を上げることも心がけた。効率のいいクロストレーニングとしてマチは気に入っている。

 筋肉、呼吸。

 ちょうどさっき、佐々木に言ったように自分の体と向き合ってペダルを踏む筋肉に集中する。筋肉。呼吸。相談。父に。銃の。

 汗が流れるとともに雑念は出たが、むしろ全身に力が漲り(みなぎり)、いつもよりも二分ほど早く自宅に到着した。

 家の門(もん)を開くと、駐車場にはボルボの赤い4WDが停まっていた。「やっぱり北国(ほっこく、きたぐに)の車は北欧のものがいい」という父の謎の主張とこだわりにより、通勤にも日常使いにも乗られている古い車だ。マチもトレイルランに打ち込んでいた時代は道内(どうない)各地の会場までこの車で送ってもらった。

 その父が、比較的早い時間に帰宅している。マチはロードバイクを停め、深呼吸してから玄関に向かった。

「ただいまー」

 家の隅々まで届くように声を張り上げると、リビングから男二人の声で「おかえりー」と返事があった。

 広々としたリビングのソファで、男二人がちんまりと隣り合って座っていた。父・義嗣(よしつぐ)と弟の弘樹は、真剣な顔をしてテレビを睨んでいる。その手にそれぞれコントローラーが。どうやら、父子(ちちこ)仲良くゲームをしていたらしい。

「ヒロ、アイテム使って、使って、ほら急いで」

「え、どれ。いやそれ今じゃないって、パパのスキルでバフ使ってよ」

 とりあえず、しばらくは二人ともコントローラーを手放すまい。マチは部屋に漂うカレーの匂いを嗅ぎ、自分がそれなりに空腹なことに気付いた。吉田がキッチンに用意しておいてくれたエビフライカレーとグリーンサラダをトレイに移し、リビングに持って行ってソファの一角に陣取る。二人が熱中しているのは協力して敵を倒すゲームのようだが、興味のないマチにはちんぷんかんぷんだ。分からないまま、少しだらしなくカレーを食べながら、熱中する父と弟を見守る。

 マチがカレーを食べ終え、ローテーブルに食器を放り出したままゲームの画面を眺めていたところ、ふと義嗣の手元からピピピ、と電子音がした。

「おっ、一時間たった。ハイ弘樹の息抜き終了ー。受験勉強がんばってください」

「え、もう少しキリいいところまで。セーブポイント探させてよ」

「だめー。オートセーブあるだろ。また明日」

 ちぇっ、と弘樹は唇を尖らせながらも、大人しく自室へと向かった。受験生なんだからそもそもゲーム自体を我慢しなさいよ、と思いつつ、マチは弟の素直さが微笑ましかった。岸谷家は小さなケンカはあるものの、きょうだい仲も親子仲もさほど悪くない。

 義嗣はソファから立ちあがってぐぐっと伸びをした。ラフなTシャツと短パンの下の筋肉が柔軟に動く。大学まで本格的にサッカーをしていた父は、付き合いのゴルフ以外はたまに釣りに行く程度の運動量だというのに、五十代後半にはとても見えない若々しさだ。

 ジムで極限まで体を鍛え上げられることも才能なら、トレーニングなしで身体能力を保てるというのもまた才能だ。いや、生き物としての能力が高いのかもしれない。そんなことをマチがぼんやり考えていると、義嗣は腰を反らし、反動をつけてそのままローテーブルの上の食器へと手を伸ばした。

「あ、いやいいよパパ、自分で片すから」

「いや、俺と弘樹の皿もシンクに置きっぱなしだから、ついでに食洗機に入れるよ」

「じゃ、私お茶淹れる」

 マチは慌てて立ちあがると、父を追ってキッチンに向かった。

「ほうじ茶、ジャスミン茶、ハーブティーならどれがいい?」

「あ、寝酒にほうじ茶割り飲みたいから、今飲む分と別に多めに作って」

「了解」

 マチはポットのスイッチを入れ、機嫌よく皿を予洗いしては食洗機に入れていく父を横目で見た。

 たぶん、話したいことがある、とは察知されてしまっている。もしかしたら猟銃に興味があることは母からすでに伝えられているかもしれない。堀井銃砲店で知り合った新田さんについて聞きたい気もする。ただ、順番と熱意の伝え方を間違えれば余計な心配をかけることになる。その上、ただでさえ話すべきことが多すぎて、マチは会話を切り出す糸口を見いだせずにいた。

「ママから聞いたんだけど」

 義嗣がサラダボウルを食洗機に入れ、マチに向き直った。

「マチは鉄砲撃ちになりたいんだって?」

 いきなり核心をつかれ、マチは口ごもった。間違ってはいない。いないのだが、母の認識から直接伝達されたであろうその表現はマチの真意から少しずれている気がする。うん、と肯定のために首を縦に振ってから、説明を付け加える。

「鉄砲撃ちというか、ちょっと、狩猟に興味が出てきて。前に言った、その、森山さんのとこで雑誌を見てね」

 恋人の浩太の存在は両親に伝えてある。彼がアウトドアにあれこれ手を出しているということも。義嗣は特に顔色を変えることもなく、朗らかに「そっか、森山さんが」と続けた。

「その森山さんに誘われた?」

「ううん、私が勝手に興味持っただけ。というか、興味持ったことまだ伝えてないや、そういえば」

 説明して初めてマチも気づいた。そういえば、えみりには「今興味を持っているものがある」とは言ったが、浩太にはそれさえ伝えていない。義嗣は特に意外そうでもなく「そっか」と頷いた。

「マチがやりたいんなら、いいんじゃないかな。俺もママも、危なくないんなら反対しない」

 父の言葉と、少し悪戯っぽく細められた目に、マチは「ありがとう」と自然に礼を言った。母の反応からいっても強く反対されることは考えていなかったが、それでも、難色を示されることを恐れていたのだ、と今さらわかった。

 マチはほうじ茶を淹れると二人分の湯飲みを持ってリビングに戻り、父と向かい合って座った。そして、今日、偶然から大学の近所にある堀井銃砲店を見学したことを話した。

「それで、常連だっていうハンターさんにご挨拶したらさ。新田さんて、猟友会の会長さんなんだけど、パパのこと知ってるらしくって」

「え、待って。新田さんて、新田工作所の新田社長?」

「うん、星形チョコの金型作ってくれてるって言ってた」

 あー、はいはいはい、と義嗣は大げさに口を開けて頷いた。

「そうか、確か鹿撃ちやるって聞いた覚えがあるけど、猟友会の会長さんまでやってたのか」

 すごいな、と素直に感心した様子で義嗣は茶を啜った。

「それで、鉄砲持つかどうかはともかく秋になって猟期に入ったら見学に連れて行ってあげようかって。行ってもいい?」

 新田の素性を知っているなら反対もしないだろう。マチはそう思って父の返事を待った。しかし、義嗣はうーんと腕組みをして天井を見ている。たっぷり五秒考えたのち、マチの目をじっと見た。

「いいけど、俺も行きたい」

 父の目はゲーム中の弘樹のように真剣だった。