夜明けのハントレス 第15回 河﨑 秋子 2024/12/12

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、偶然手にした狩猟雑誌を読み、狩猟に惹かれる。銃砲店の店主・堀井から紹介された猟友会会長の新田に教えを乞いながら、狩猟免許を取得した。大学四年生となり、就職活動も終えた十月、マチのハンター二年目のシーズンが始まった。早速、新田たちと鹿撃ちをするため山に入るが、そこで単独で猟をする三石と出会う。

 就職の内定をもらった四年生の秋ともなると、卒論を早めに提出し終え(おえ)、マチはそれまで就活に費やしていた時間を持て余していた。

 母が経営するジムでのアルバイトは、顧客あってのことだ。こちらの時間が空いているからといってシフトを詰め込めるわけではない。春になれば四年続けたこのバイトもやめなければならないから、今新規の会員を受け持つわけにもいかない。

 なら猟期のうちにできるだけ鹿を撃ちに出たい、と思っても、それも難しかった。同行できる先輩ハンターたちも社会人が多く、平日の昼間に遠出ができるわけではない。マチはやる気を持て余して、大学近くの堀井銃砲店に足を運ぶことが多くなった。

 とはいっても、安直(あんちょく)に銃を買い足す訳にもいかないので、他の客がいない時に接客用スペースに座らせてもらい、猟関連の書籍やカタログを眺めることが多い。

「うちで店番のバイトとして雇ってあげられたらよかったんだけどねえ」

 そう言って、店主(てんしゅ)の堀井は少しすまなそうにコーヒーをすすめてくれた。

「いえ、すぐに大きなものを買う予定もないのにいつも居座っちゃってすみません」

「いや、店に人がいないよりは全然いいよ。ただでさえ、初心者の人が最初に足を踏み入れる時には緊張するであろう店だからね。若いお客さんもいる、と分かってもらうだけで十分助かってる」

 身内のような笑みを向けられて、マチは「まあ、ええ」と曖昧に同意した。確かに、自分が初めてこの店を訪れた時は、ドアをくぐる勇気がなくて前の道を何往復もした。あの時、堀井の母であるお婆さんに声をかけられなかったら、ハンターへの第一歩を踏み出せていなかったかもしれない。それから、もう二年以上も経った(たった)のだ。

「とにかくハンターの経験を積みたい(つみたい)な、とは思うんですけど、他の人の都合もありますからね」

 マチはLINEを開いて猟友会のグループチャットを確認した。新田が会長を務める猟友会は所属するハンターも三桁(けた)に迫る勢いだが、ともに猟に出る面子(メンツ)は自然と固まってくる。

 グループ内では毎週のように誰かが同行者を募ってはいるが、慣れた相手以外と猟に出るのは気を付けた方がいい、と新田から忠告されていた。

「マチちゃんは一人で山に入る気、ある?」

 ふいに、堀井が届いた郵便物(ゆうびんぶつ)に目を通しながら聞いてきた。うーん、とマチは顎に手を当て言葉を選ぶ。

「正直、あまりうまくイメージができないです。一人で猟に行きたい、と考えたことも別になかったし。動物と人間の一対一の戦いじゃないとフェアじゃない、って人もいると思いますけど、個人的には道具持っちゃってる時点で、何か違うかな、と思いますし」

 マチは愛銃を構えて撃つ仕草をした。自分の考えを慎重(しんちょう)に整理しながら説明を試みる。

「銃を持って動物を撃つこと、仲間と集団で狩りをすること、文明の利器(りき)を使うこと。それについて疑問を持っちゃったら、そもそも動物に対してどう相対するのが公正なのか、って話になっちゃうだろうし。あと多分、私、ストイックな性分ではないですから」

「正直だね」

「理想で先走ったら危ない、とは新田さんから散々(さんざん)教わりました」

 プライドや面子なしに銃を持つ者などほとんどいないが、それに拘りすぎれば自分も同行者も命を落としかねない。師匠が有形無形(ゆうけいむけい)に示しているスタンスを、マチはほぼ無条件で尊敬している。そういえばその新田と出会ったのもこの堀井銃砲店だった。

「新田さんは人に指導することが多い立場上、単独忍び猟に行くことはないからね」

 堀井の穏やかな口調(くちょう)で、たぶん顧客の中に単独忍び猟をする人もいるのだろうな、とマチは思い至る。さっき自分が喋ったことが、そういう立場の否定になってはいなかったかと反省(はんせい)する。店の奥からお婆さんがお茶を持ってきてくれたので、それを機に話題を切り替えることにした。

「そういえば、シーズンの最初の猟で、一人で山の中に入ってるハンターに会いました。新田さんのお知り合いみたいで」

「へえ、うちのお客かな」

 マチは密かに賭けた。あのハンターを堀井が知っているかどうか。知っているなら、どう反応するのか。

「私より二回りぐらい上かな。確か、ミツイシさんって」

「三石勇吾?」

 聞き返した堀井は、表情は変わらないが声が僅かに固い。

「ああ、何回かうちにも来たことあるな。最近見ないけど」

 それだけ言うと、堀井はいかにもそっちに用事があります、というようなゆったりとした足取りで、裏へと向かった。

 情報交換の場であると同時に、商売として客のプライバシーは守るはずだから、ペラペラと喋るはずはない。喋るとすれば、開示の許可を得た情報のみのはずだ。だが詳細を語らない、しかも最近来ないということは、縁が切れたか薄くなったということだろう。三石の新田に対する刺々しい(とげとげしい)態度を思い出すと、まあ、そういう人なのだろうとマチは思った。

 孤高(ここう)のハンター。言葉は格好いいかもしれないが、これから社会人となり、大人の入り口に立つ年齢のマチには、人に荒く接して自ら孤立するような人物を格好いいとは思えない。思わず口がへの字になっているところで、店のドアが開いた。

「ああ、岸谷さん。こんにちは」

「こんにちは熊野さん。今日は有給(ゆうきゅう)ですか」

 三石とは対極にいるような、人懐こい笑顔を見せた熊野がそこにいた。平日だというのにチノパンにポロシャツという、完全に休日の格好だ。

「うん、最近少し忙しかったから、できる時に有給消化しておこうかと。新しい型の銃も見たかったし」

「なんだか、お疲れみたいですけど」

「ああ、わかっちゃう?」

 熊野は荒れた頬をざっと撫でた。

「これでもお役所の仕事してるからさ。クマ関連で色々と、市民のご意見への対応がね」

 はー、と熊野は深く息を吐いて大テーブル(だいてーぶる)備え付けの椅子に腰かけた。堀井が店の奥から出て来て場に加わり、挨拶を交わす。熊野の横顔は少しやつれていた。

「お疲れ様です。大変ですね」

「うん。でも、今はちょっとましになったかな。秋に入ったし、今年はドングリも豊作だから、山での目撃情報はあっても食べ物求めて山から市街地に降りることは少なくて、こちらとしては助かった」

「ああ、市街地が……そうですね」

 困り顔の熊野にマチは苦笑い(にがわらい)を向けて同情した。札幌市内はマチが住んでいる円山地区はもちろん、山林に接するあちこちで毎年クマの目撃情報がある。二百万人近くが住んでいる地方都市としては、かなりの数だ。対応する自治体の部署にいる熊野を、マチはハンターとは違った意味でも尊敬していた。

「どうせなら、毎年ドングリが豊作だったらいいのに」

「だといいけど、そうはならないんだよねえ」

 マチの素直な願望を、堀井が同調したのち柔らかく否定した。熊野は悩ましい、とばかりに腕を組む。

「大学の先生の話だと、気候の変動ももちろん関係するけど、植物側の戦略で豊作不作の波があるみたいで」

「波?」

「ドングリ食われるって、木にとってはあんまり嬉しくないじゃない。だから、豊作で実を食べる動物が一時的に増えた後、波が低くなるみたいに不作の年があって、増えた分の動物が減るようになってるって話だったかな」

「植物対動物ですねえ」

 ハンターは人間対動物だけれど、植物も動物と戦うらしい。マチも熊野のように腕を組んだ。

「クマも増えたり減ったり、色々ねえ。撃ちたい人にとっては、増えた方がいいのかもしれないけれど」

 そう言いながら、店の奥から、盆に茶を乗せたお婆さんが出てきた。熊野に新しい茶を、マチにはおかわりを出して、自然な流れで自らも椅子に座って話の輪に加わる。

「岸谷さんはクマ撃ちたいとか、あるの?」

 まるで、お嫁さんになりたい願望はあるの? と尋ねるような上品さで、お婆さんは聞いた。

「うーん、私はそれほど」

 率直に、マチは答えた。

「獲物としてはクマより先に、鹿をもっと上手に狙える(ねらえる)ようになりたい、無駄のないように、ネックショットで獲れるように、とか考えてばっかりです。まだまだ半人前ですし、クマを相手にするとかは、ちょっと目標が大きすぎて」

「そうなの」

 にこにこと、柔らかく真意の見えない微笑みを浮かべると、お婆さんは茶を一口飲んだ。

「あの子は、三石(さんごく)君は、一人で山に入るのと、クマ撃つのに命かけてる側の人間だね」

「母さん」

 小さく嗜める(たしなめる)堀井を無視して、お婆さんは続ける。

「スマホや無線や、便利な道具が増えて、銃の性能も上がったけれど、今も昔もそういう鉄砲撃ちは一定数いるね。一人で狩りに出かけて、しかもクマを仕留めることにだけ、鉄砲撃ちの目標を定める人」

「ああ、まあ、ねえ」

 熊野が困ったようにお婆さんに頷いた。熊野も、堀井も、お婆さんも、三人とも視線はテーブルへと向けられているのに、その先にいる、特定の種類の人間のことを見ている。その中に、三石勇吾はいるらしい。

「クマが……」

 続けられないまま、マチは呟いた。北海道でハンターになるということは、クマのいる場所に足を踏み入れるということだ。だが、害獣駆除、あるいは獲物としてクマを撃つ人がいるとしても、自分とはまったく異なる次元の話だと思っていた。

 なにせさっき自分の口で言った通り、自分はまだ半人前。だからこそ新田も鹿撃ちの時にクマが出ない場所を選ぶし、害獣駆除への協力で駆り出されたこともない。先輩ハンターの中にはクマを仕留めた経験を自慢げに語る人もいたが、特別な憧れを抱くこともなかった。

「まー、ねえ」

 熊野が間延びした声を出して、全身を伸ばした。

「僕なんかは、クマ対策の仕事してても、猟師としては基本、積極的には撃ちたくない側かな。そりゃ出くわして命の危険があれば、一か八か撃つだろうけど」

「そうだね。それでいいんだと思うよ」

 堀井の穏やかな同意に、マチも同調して頷く。

「私も、進んでクマは撃ちたくないですね。少なくとも今は」

 あ、でも、とマチは自分の心に浮いて来た願望を掬いあげる。

「一人で鹿を見つけて、仕留めて、ちゃんと持ち帰ってくるぐらいはできるようになりたいかも」

 思い付きで口にしたことに、堀井は「そうだね」と同意した。

「ベースは集団で狩猟するにしても、一人で行くのもいい経験だと思うよ。もちろん、安全に気を付けて」

「うん、鹿の探索とか、自分の感覚だけでできるようになると、格段に技術向上というか、レベルアップすると思う。いいんじゃないかな」

 堀井と熊野の同意を得て、マチは頷いた。お婆さんが柔らかく笑う。

「一人で行くのも、みんなで行くのも、優劣なんてない。ただ、やったことのない猟を一度でも経験しておくと、同じ山に足を踏み入れるのでも、見えてくるものが変わると思うよ。逆に、それを知らないままだと鉄砲撃ちとして損をするかもしれない」

「はい」

 マチは素直に頷いた。そして密かに、この女性、ハンターの経験をかなり積んだ人なのではないかと想像した。

「ま、老婆心で余計なこと言っちゃってごめんね。見た通り老婆なもんで」

 アッハッハ、と笑うお婆さんはこれが鉄板のネタなのか、実に愉快そうだった。一緒に笑っている堀井も熊野も慣れているようだが、マチは思わず口角が強張った。

 翌週の平日早朝、マチは夕張(ゆうばり)の山中にいた。重め(おもめ)の初雪(はつゆき)が降った後だが、斜面の陰でも根雪(ねゆき)にはなっていない。一応スノーシューも持ってきたが、笹にうっすら雪がかかっている程度で、使う機会はなさそうだ。

 マチは事前に、新田に単独猟の相談をしていた。

 LINEで『今週、一人で山に入ってみたいと思います』とメッセージを入れた直後、新田の反応はやや過剰だった。

『同行者が見つからないなら知り合いに声をかける』『焦って慣れないことをしても早く経験を積めるわけじゃない』等、矢継ぎ早に心配をしている旨のメッセージが送られてきた。

 マチは、堀井銃砲店で話をした後、一人で山に入った時に何を感じるか、獲物を見る目がどう変わるのか、経験しておきたくなったのだと言葉を尽くして説明した。もちろん、安全には気をつけると言い添えた(いいそえた)上で。

 新田は理解してくれたのか、今年はクマの気配が薄い山をいくつかピックアップして送ってくれた。さらには、翌週にグループで安あ平びらに鹿撃ちに行く提案もしてきた。ちゃんと、安全に猟から帰れということらしい。心配して叱ってくれる師匠ほどありがたいものはない。マチは安平の猟に行くことも固く約束した。

 そんな経緯を経て、マチは今、夕張の山で一人佇んでいる。先を歩く人はいない。自分一人で道を決め、獲物を探し、怪我なくかえってこなくてはならない。

 思えば、陸上競技をしていた頃も、トレイルランをしていた時も、進むべき道は決まっていた。今までの狩りも、たまに先を歩かせてもらったことはあったが、それは師匠や先輩ハンターに答え合わせをしてもらう前提だった。

 けど今日は自分だけだ。そう認識した途端、マチの全身に鳥肌(とりはだ)が立った。