夜明けのハントレス 第12回 河﨑 秋子 2024/11/21

【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、恋人の浩太の家にあった雑誌を読んで狩猟に惹かれるが、狩猟免許を取りたいと話すと浩太はそれを歓迎(かんげい)せず、二人は別れることに。銃砲店の店主・堀井から紹介された猟友会会長の新田に同行し、初めて狩猟を見学したマチは、狩猟をやろうと思っていると友人のえみりに話すが、彼女もまた、それを理解してくれなかった。

 マチは猟期のはじめに新田の鹿撃ちに連れて行ってもらったことで、改めて銃砲所持と狩猟免許取得への意思を強くした。

 その一方で、マチ個人の人間関係は移り変わっていく。恋人だった浩太とはもともと強い結びつきではなかった。

 それよりもえみりに狩猟への興味を含め、裕福な家に生まれた自分を否定されたことの方がマチにはこたえた。普段の表情も暗くなっていたのか、家事代行の吉田に気遣われる始末だ。これではいけない、とマチは自分を奮い立たせた。

 師匠の新田らが主な活動場所としている石狩(いしかり)・空知(そらち)地方のエゾシカ可猟期間は、十月一日から翌年の三月三十一日まで。マチは当初、今季中に自分も猟銃で鹿を撃てるようになりたい、と考えた。

 マチは四月に入って早々に二十一歳の誕生日を迎える。そして、次の狩猟期間は約半年後の秋になるまで待たなくてはならない。空白の時間を過ごす前の、二十歳(はたち)のうちにハンターになっておきたい、と思った。

「次の猟期でもいいんじゃない?」

 相談した新田はそう答えた。堀井銃砲店の店主も、急ぐことはない、とアドバイスをくれた。二人のそれらの意見は、『急ぎすぎるな』という警告でもあるのだと、マチは察した。もっともである。

 結局マチは今季のうちに狩猟免許を取ることを諦めた。ただし直接の理由は、弟・弘樹の高校受験だった。

 三月に予定されている受験日に向け、弘樹は塾に家庭教師に、と夏からずっと根を詰めている。第一志望校はマチの母校でもある、市内で一番偏差値の高い高校だ。そして、合格できるかどうかは正直ギリギリであるらしい。

 それを聞いて、マチは両親に相談した上であっさりと今季の免許取得を諦めた。マチは高校受験時に第一志望校にも十分合格できる学力を有していたが、それでも受験を控えた冬に感じた緊張とプレッシャーは強く記憶に残っている。

 逃げることができない、自分一人の力で立ち向かっていくしかない大一番に弟が挑んで(いどんで)いる。同じ家で、えみりが言うところの金のかかる趣味であるハンティングのことで集中を乱すのは避けたかった。なにより、自分が受験生だった頃、両親も今は留学中の兄も何かと気を遣ってくれた。それを思い出して、マチは予定を先延ばしにした。恋人と友人が異を唱えたからこそ、余計に、身近な家族の許可がどれだけ寛容なものだったのかを思い知ったのだ。

 きちんと銃砲所持許可と狩猟免許を取得し、心身を鍛えよう。札幌に初雪(はつゆき)が降る十月下旬ごろ、そう心を切り替えた。

「姉ちゃん。ごめん、和英辞典持ってたら見して。俺が持ってるのと出版社違うやつ」

 十二月に入ったばかりの夜、ノックの音と共に弘樹の声が聞こえた。「いいよ」とマチが答えるとすぐに部屋のドアが開く。その先で、弘樹は不審なものを見つめる目でマチを見ていた。

「なにやってんの」

 マチは床に右ひざをつき、右肩に特製の木の棒の端を当てるようにして壁を狙撃(そげき)する姿勢をとっていた。

「ああこれね」

 立ち上がってスウェットの膝を払う。かれこれ十分以上同じ体勢を保っていたが、筋肉に疲れはない。

「ハンターの師匠に教えてもらって。ほら、アレを素早く狙って(ねらって)練習してるの」

 マチは再び片膝をつく姿勢をとり、壁に点々と打った画びょうに、銃口に見立てた棒の先を向ける。それを、姿勢を動かさないまま、バッ、バッと次々動かし、そのたびに先が正確に画びょうを撃ち抜けるように狙いをつけるのだ。

 木の棒は新田が自分の加工場で作成した特製の練習用木銃(もくじゅう)だ。銃床(じゅうしょう)もそれっぽく削りだしてあって、ご丁寧に重さも本物を再現するために重りとなる金属を埋め込んであるのだという。彼が新人ハンターに貸し出しているうちの一本だ。

 このトレーニングによって集中力に加え、シンプルに肩や腕の筋肉を鍛えられる。マチは長距離走(ちょうきょりそう)やトレイルランニングで下半身を中心に鍛えてきたので、肩や腕を鍛えるのはやり甲斐(やりがい)があった。半年前に比べてスウェットの肩回りがきつくなった気がする。

「地味ぃ」

「地味なのが大事、らしいよ」

「それで姉ちゃん、最近リビングでも暇さえありゃ二リットルのペットボトル振り回していたわけか……」

 弘樹は呆れたようにマチの本棚に向かい、お目当ての和英辞典を手にとった。そのまま、マチのベッドに座ってぶつぶつと単語を確認し始める。

「大学生の姉が鉄砲ごっこしてるところを目撃するとは思わなかった」

「まあ、そうね。これはたしかにごっこ」

 ふう、とマチは額に浮かび始めていた汗を手のひらで拭う。

「でも、ごっこの先にやりたいことがあるからさ」

「ふーん」

 パタン、と弘樹は表紙を閉じた。そのまま、辞書を戻すでもなく表紙を無意味に撫でている。

「なんか、俺の受験がジャマしたみたいで、悪かったね」

 おや、とマチは面食らった。小学校低学年ごろまでならともかく、ある程度大きくなった弟がこんなに素直になるのは珍しい。

「別に、弘樹の受験だけが理由じゃないよ。こうやって腰を据えてトレーニングもできるしね」

「そか」

 弘樹は立ち上がり、辞書を戻した。ドアを閉める寸前に、背中を向けたままでもごもご話し始めた。

「前にもらったっていう鹿肉、うまかった。姉ちゃん鹿撃ったら、庭で焼いて食いたい。バーベキュー。串に刺したやつ」

「うむ、期待して待つがよいぞ」

 ドアが静かに閉じられる。弘樹が頑張っているのは知っているから、頑張れとは言わなかった。マチだって同じ道を走ってきたから知っている。えみりはマチの努力を知らなかった。知らせようとも思わなかったのは、自分の落ち度だったのだろうか。マチは落ち込む気持ちを振り払うように、「次、立射一(りっしゃー)セット十分、開始」と声に出した。

 時間は速やかに流れていった。マチは幾度(いくたび)か新田の猟に連れて行ってもらいながら銃について、野生動物についてなどを教えてもらった。体のみならず、頭も狩猟用に鍛えていく。並行して銃砲所持の実技試験や狩猟免許の申請をし、堀井銃砲店の店主に相談し、自分が初めて持つ銃を検討していった。

 えみりとはもう連絡をとることはなかった。共通して取っている講義がいくつかあったが、それぞれ別の友人と同席した。目が合えばお互い無難に挨拶はするが、それ以上の会話はなかった。それでいいと思う。マチは密かにえみりの様子を気にしていたが、急に服装が変わることも、健康を害している様子もなく、ただうっすら疲れ続けているいつものえみりだった。そのうち冬休みに入り、顔を合わせることもなくなった。

 三月。弘樹は無事に第一志望の高校に合格した。ずっと札幌をもったりと覆っていた雪もこのころには大分とけてくる。そのころを見計らって、マチは早朝ランニングを開始した。主なコースは、家のすぐそばにある円山公園だ。

 自宅にもバイト先のジムにもトレッドミルはあるが、やはり体で風をきって走るのはいい。おまけに、円山公園は起伏(きふく)のある遊歩道が多く、鍛えておけば狩猟で山に入った時に役に立つはずだ。

 競技としてトレイルランを走っていた頃からは大分ペースを落とし、かわりに五感を外に向けることを心がけた。春になり活発になってきた野鳥、木々の間を飛び回るエゾリス。木々の新しい葉はどんなペースで芽生え始めるのか。斜面によって生える木の種類や密度は変わるのか。今まで山を走っていてまるで気にしていなかった周囲の景色ひとつひとつが、今のマチにとっては教科書となった。

 十月初旬。マチが、ハンターとして初めて迎える鹿撃ちの日となった。自室の隅に置かれた、インテリアへのとけ込みなど無視したようなガンロッカーの鍵を開け、自分の銃を取り出した。

 一メートル二十センチ弱の、ボルトアクションショットガン。国産メーカーによるものだ。まだ射撃場以外で使ったことのない、マチの初めての相棒。それが、手の中で輝いている。銃床の木の模様ひとつひとつが愛しかった。

「頼むよ先輩」

 この猟銃は新品ではない。新田が紹介してくれたハンターから、手続きを経て中古で購入したものだ。もちろん、堀井銃砲店の手によってちゃんと整備されたうえ、セットで売ってもらったスコープと共に射撃場で調整を終えている。

 新田から借りたトレーニング用の木銃と重量はほぼ変わらないはずなのに、本物は手にずっしりと重く感じられた。それを銃カバーに収め、必要な道具もスマホのチェックアプリで確認して、忘れ物がないようにする。

 服は、動きやすく乾きやすい綿百パーセント(わたひゃくぱーせんと)のズボンとシャツ、アンダーシャツと靴下は新田のアドバイスで高くて良いものを選んだ。

 そして、仕上げにハンターの大事な目印ともなるオレンジ色のベストとキャップ。マチは鏡の前で全身をチェックした。

 どこからどう見てもハンター、とは言えない。汚れひとつないベストは、いかにも何の成果も出していない新米(しんまい)ハンターという感じだ。マチは鏡の中の自分の写真を撮った。肉体改造のビフォーアフターと同じで、一年後、自分の姿がどう変わるのか。その変化を想像すると、初々しいハンター像は悪くはなかった。

 玄関から出ると、外はまだ真っ暗だ。マチは車の荷台に銃を置き、さっそく乗り込む。

 愛車は、アメリカに留学中の兄が置いて行った中古のジムニーだ。ちゃんと名義も書き換え、マチの車になっている。

 兄からは身内価格で譲ってもらった。とはいえ、整備や車検のコストを考えるとけっして安いものではない。それでも、軽自動車の割に悪路(あくろ)でも走りやすいことと積載量の多さからハンターに人気の車種と聞いて、買わないのはもったいない、と思ってしまった。

 ジムニーで家を出て、まだ闇の中の市街を東へと向かう。新田たちと落ち合うのは、一年前、初めて見学に行ったのと同じ夕張(ゆうばり)の山だ。山中の待ち合わせ場所には先に到着した。東の空が少しずつ明るくなっていくのを眺めていると、他のハンターたちが集まってくる。

 今回の狩猟は新田、熊野、マチ、そして新田の知り合いというベテランハンターの男性が三人。皆、狩猟デビューとなるマチに初の獲物をとらせよう、という雰囲気に満ちている。ありがたい、と思う気持ちと、申し訳ない、という気持ちが混ざり合った。皆こうして経験を積んでいくのだ、という気持ちでマチは素直に感謝した。

 一行は三組に分かれ、無線で連絡をとりながら確実に鹿がいる場所の情報を共有することになった。マチは新田と組むように言われ、静かにその後ろをついていく。肩にかけたスリングベルトは重いが、やっと、銃を持って山に入れたという実感があった。

「もうちょい奥にいそうだな」

「はい」

「マっちゃん、焦るなよ。焦るのが一番危ない。クマより危ない」

「はい」

 先を行く新田の声は穏やかだが、山で先人が語る言葉は全て金言(きんげん)だ。焦るな。マチは自分に言い聞かせながら、新田の後ろを歩く。ガサ、ガサッとクマザサをかきわけては足を止め、周囲の様子を窺うことを繰り返した。

 時折、新田が装着しているスピーカーから『熊野です、いませんね』などと短い連絡が入ったのが聞こえる。

「こっちも湿った糞はあるんだがなあ。鹿も臨時休業にしたのかね、今日は」

 そういうこともある。そう言って新田は慰めた。マチもそれは分かってはいたが、せっかく意気込んできたのに、撃つ経験さえないままボウズはやはり少しだけ悲しい。

 時間をみると、もう朝八時になっていた。新田とマチは細い流れに沿って斜面を登った。ベテランの一人から無線が入る。

『こっちいないわ。糞も乾いてる』

「了解。一度、車を停めた場所まで全員戻るか」

 そう新田が言った時、遠くでパキリと枝が折れるような音がした。

「あっ」

「おっ」

 マチと新田が気づいたのは同時だった。今、二人が登ってきた斜面から右手側に、焦げ茶色の塊が三つ、身を寄せながら歩いている。まだ若い雌の鹿が三頭。距離は四十メートルというところか。小川の近くまで歩いてくれば、マチたちとの間に邪魔になる木はない。背後は川にえぐられた土の壁がバックストップ、つまり安土になっている。これで背後に土の壁ができ、発砲できる安全な条件が満たされた。

 新田が目で問うている。マチは頷き、銃を肩から下ろした。何度も練習した通りにスラッグ弾を装填する。ガシャン、というボルトアクション特有の音が鹿に気付かれないように祈った。

(立射でいきます)

(うん、いけ)

 唇の動きだけで確認し合い、銃床を右肩につける。家でのトレーニングでも、射撃場での練習でも幾度も行ったように、斜面でもぶれないように体幹を意識して、スコープを覗く。けっして遠い距離ではない。けれど、マチは今までの人生で間違いなく一番の集中力を以て、銃口の先にいる鹿を仕留めるイメージを形作った。

(つづく)