夜明けのハントレス 第11回 河﨑 秋子 2024/11/14
【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、恋人の浩太の家にあった雑誌を読んで狩猟に惹かれる。銃砲店の店主(てんしゅ)・堀井から紹介された猟友会会長の新田は、狩猟を始めるための手続きを教えてくれた。マチは狩猟免許を取ると浩太に報告するが、彼はそれを歓迎せず、二人は別れることに。十月になり狩猟解禁日(かいきんび)を迎え、マチは新田に同行し、初めて狩猟を見学する。
「おう」
「いますね」
鹿の発見はあっけないものだった。窪地(くぼち)で新田が足を止め、熊野が頷く。マチが鹿を見つける前に、新田は銃を下ろすと弾(だん)を装填(そうてん)し、膝を地面につけた。銃口の先を視線で追ってようやく、笹の生い茂った斜面を背後に立つ鹿を見つけた。立派な両角(りょうかく)が天を向いている。
そこからの流れは早かった。新田は手慣れた様子で引き金を引く。
耳を塞ぎ忘れたマチは、空気を震わせる発砲音(はっぽうおん)に全身を殴られた(なぐられた)ように感じた。ほぼ同時に、急所(きゅうしょ)を撃ち抜かれた鹿は斜面を転がり落ちる。新田は藪をこいで鹿に近づいた。マチもその後を追い、安全を考えてか熊野がその後ろに続いた。
マチはつい一分前には生きていた鹿が、撃たれて命を失うところを見届けた。続いて、ナイフで止め刺し、つまり首の根元にナイフを刺し、放血(ほうけつ)するところまでをちゃんと見た。
驚くほどあっけない、そして新田らにとっては慣れているであろう情景だった。一頭の鹿が撃たれ、死んで、肉になる。一連の作業があまりにもスムーズすぎて、マチはその様子も、自分の心が静かにこの状況を受け入れていることも、まるごと驚きだった。
続く解体は、マチは見学するだけだった。新田と熊野は、慣れた手つきで横たえた鹿にナイフを入れていく。皮と肉が分かたれ、内臓が出され、関節が外され、骨から肉が外されていく。マチは、二人の許可を得て一部始終をスマホで撮影した。そのお陰か、自分の感情を一時よそにやって作業を見守ることに集中できた。内臓を出すときにもわりとした臭いを鼻先に感じて、ようやく「そうだ、鹿の死体だった」と気づいた。
新田と熊野は手順の確認以外はほとんど口を開かなかったが、新田が背中の肉にナイフを入れている時、ふと「個人的意見だけど」と呟いた。
「撃たれる側の動物にしてみりゃ、手前を殺した人間が男か女か、年寄りか若いか、賢いかバカかなんて関係ないよな」
マチや熊野に言うというよりも、己(おのれ)に確認するような言い方だった。
「その分、撃つ側の存在が試されちまうんだよなあ」
そう言葉を繋いで、新田はロース肉を三十センチほど切り取って、持参したビニール袋(びにーるぶくろ)に入れた。そしてそれを、「お土産」と笑ってマチに手渡す。肉はまだ温かく、ぐんにゃりとしていた。死後硬直の前の肉とはこんなに柔らかい(やわらかい)ものなのか。熊野から「クーラーバッグに入れるよー」と声をかけられるまで、マチはその重さを手で確かめた。
見学、つまり狩猟現場を体験することでマチの決意はより強くなった。私はこの道を行く。帰宅し、両親にそのことを話すと、「マチがそう決めたなら」と決断を肯定された。
「でも、安全第一。自分にも他人にも。これだけは絶対」
父からそう念押しされて、マチは頷いた。
新田から土産にと持たされたロース肉は、家事代行サービスの吉田が調理してくれることになった。吉田は道東の内陸にある町出身で、鹿肉の扱いには慣れているのだという。
マチは久しぶりに台所に立ち、調理のコツなどを直接教わった。若い個体で、血抜きもきちんとした鹿肉は、鮮やかな色で生でも食べられるのではないかと思われた。吉田はその塊を、軽く塩コショウとドライのローズマリー、ニンニクだけでソテーする。
「牛乳につけて臭い消しとか、しなくていいの?」
「今日のは新鮮で状態もいいですからね。それに、よく言う『臭みがない』っていうのは、『おいしい』のではなく『特徴がない』ってことですよ。無暗に消せばいいってものじゃありません」
ロース肉は香ばしく焼き上げられた。吉田はそれを「繊維に垂直に切るんですよ」と切り分けてくれる。味見、と渡された端っこを口にして、マチは唸った(うなった)。中まで火を通したにもかかわらず、柔らかい。肉の繊維に歯を立てると、鹿肉特有の香りを伴って肉汁があふれ出す。今まで外食でジビエとして供されたどんな鹿肉よりもおいしかった。
「なるほど。これは臭みじゃなくて、旨みだね」
「分かって頂けて何よりですよ。これからマチさんがご自分で仕留めた肉を食べる日が楽しみですね」
その日がそう遠くないといい。珍しく一家そろった食卓で、両親と弟から「おいしい」「うまい」という賛辞を受けながら、マチは自分が鹿を撃つ日を想像した。
翌日。広いガラス窓がある談話室で、マチはえみりと向き合った。授業の一つが急遽休講になったことで、久しぶりにえみりとゆっくり話ができる時間ができたのだ。
窓の外では等間隔に植えられたイチョウ(銀杏〉 ・ 〈公孫樹〉)の葉が黄色く色づき、はらはらと落ちていた。一般人らしき老人が三人ほどしゃがみこみ、地面を弄って(まさぐって)いる。銀杏を探しているのだ。
えみりは頬杖(ほおづえ)をついて銀杏(ぎんなん)探しの人に視線を向けていた。その横顔に、ハンターになることを考えている、浩太と別れたのはそれが原因、でも見学に行ってこれだと思った、とマチは説明した。そして、長い話に相槌ひとつない友人の様子に不安がよぎる。
理解してもらおうと言葉を重ねれば重ねるほど、えみりの表情は無に(むに)近くなっていく気がした。
「というわけで。実技試験を受けて、狩猟免許の申請や銃の購入手続きをとって、ハンターになろうと思ってるの。もちろん安全に気を付けながら」
「いや、どこまでマジなの?」
重い声が説明を遮った。えみりはようやくこちらを見て、声に合わない作り笑顔を浮かべている。
「うちの実家も道北(どうほく)だからさ、鹿多くて、よく害獣駆除(がいじゅうくじょ)やってたわ。農家(のうか)のおじさんとかがさ」
「うん、お世話になった人も害獣駆除やるって言ってた」
「でもそれ、マチがやんなきゃいけないことなの?」
えみりは描かれた眉を寄せた。笑顔はとうにどこかへと消えている。
「札幌市内、別に鹿に困ってないじゃん。南区(みなみく)とかでクマはちょっと出るけど、別にそれ、女の子で、学生のマチが対処しなきゃなんないことじゃないよね?」
「いや、私の場合は害獣駆除で人の役に立つためにハンターになるんじゃなくてね」
「じゃあ、卒業したら、それで食っていくとか?」
「そういうわけでもなくて……」
なんと説明したらいいだろう。マチは言葉を探した。家族や先輩ハンターに対面した時と違って、うまく意図が伝わっていってくれない。
「普通に就職活動はするよ。ハンターになって、他の仕事しながら続けていきたいんだよ」
「じゃ、趣味ってこと?」
「まあ、そうなるのかな。ただ、続けていって、キツイな、とか自分には向かない、と思うまでは、行けるとこまで行ってみたい」
今はやる気しかないけど、と続けようとしたマチを、盛大(せいだい)な溜息(ためいき)が遮った。腕組みをして目を閉じた、えみりの眉間(みけん)の皺が深い。
「結局、金かかる趣味にちょっと手を出してみたいってだけじゃん」
「ちょっと」
さすがにその言い方は、とマチは反論しようとしたが、普段こんな突っかかるような言い方をしないえみりに違和感を覚えた。
「金銭的に余裕あるお嬢だもんね、マチは。やりたいことは何でもできる立場なんだから、どんな趣味でも好きにやればいい」
「そういう目で私を見てたの?」
マチは責める声を出しつつ、知っていた、とも思う。奨学金を借りても経済的余裕がなく、学業にもバイトにも疲れ果てていたこと。「古着やプチプラが好き」と言っていたけれど、本心はそうではないこと。家が裕福で、家族仲が良好で、心身健やか(すこやか)に育ったマチに対して思うところがあったこと。
プチプライス アクセント 〔 和製語 フランス petit+英 price〕 俗に,安価・低価格のこと。女性ファッション誌などで多く用いられる表現。プチプラ。プリティー-プライス。プリプラ。 「 ─ -コスメ」
それでも友達でいてくれた。明るく笑いかけてくれた。マチにとってはかけがえのない人だ。たぶん、自分が新たに始めた狩猟という趣味に嫌悪感(けんおかん)があるわけではないのだろう。問題はもっと深いところに根を張っている。
「私は、自分の生まれる場所を選んで生まれたわけじゃない。人からみれば、幸運だったのかもしれないけど。でも、なんの努力もしなかったわけじゃない」
「わかってるよ、マチが悪いわけじゃないってのは」
悪いわけじゃない。そう否定されたせいで、マチの立場に良くない感情を抱いているのが余計(よけい)に透けて見える。
「生まれのガチャって難儀だよね、良きにつけ悪しきにつけ」
えみりは今日何度目かの溜息を吐いて、テーブルに人差し指でのの字を書き始めた。
「あたし、自分で言うのもなんだけど地元では勉強できた方でさ。先生も周りの大人もせっかく頭いいんだから札幌の大学を受験しろ受験しろって」
えみりは道北の、漁業(ぎょぎょう)が盛んな町出身だ。彼女の母校からこの大学に現役合格した女子は十五年ぶりという。入学してから苦労しているが。
「同級生も、別にいじめとかはないんだけど、なんか真面目ってレッテル張られて遠巻きにされてたっていうかさ。頑張って合格して札幌きたら、みんなキラキラしてて、人のことなんか気にしなくて、ほんと楽だった。あたしもバイトしながらなんとか少しでも頑張って頑張って」
えみりは両手を組み、項垂れた(うなだれた)。表情を見せようとしない向こうから自嘲のような言葉が続く。怒りと悲しみと憤りが溢れていた。
「パパ活とか、すすきので風俗とか、楽な稼ぎ方があるの知ってるし、なんならバイト仲間から勧誘受けたりもする。でもそれは、あたしにとっては取り返しがつかないやつだってわかってる。だから、それを選ばないで安いバイト代で大変な思いしてるのも、納得してやってる。でも、しんどい。しんどいんだよ」
下を向いたえみりの髪は傷んでパサパサだ。頭を抱えた指はネイルこそ塗ってあるが肌は荒れて(あれて)いる。バイトが忙しくなるごとに荒れる肌のせいで、入学当時よりも化粧も濃くなっている。生地の薄い茶色のコートは毛玉が目立っても買い替えられることはない。
えみりの変化を、疲れを、他でもないマチはよく知っていた。気取らせたくない彼女の意思を尊重して指摘は控えていた。でも結局、それもえみりを傷つけていたのだろう。
「マチにはそういうの、わかんないでしょ」
「うん、ごめん。わかんない」
理解できる。共感できる。想像できる。そんな答えがえみりを納得させられるはずもなく、マチは素直に白旗(しろはた)を上げるしかなかった。
「でしょ。マチはマチの人生があって、それなりに大変なんだろうね。だからこれは、あたしの完全な八つ当たり。ごめん。だから放っておいてほしいの。それぞれ生きてけばいいでしょ」
互いの価値観が違うのだから、傷つけ合わないように離れて生きていこう。それは上辺だけの取り繕い(とりつくろい)であって、単にえみりは自分とはもう関わりたくないのだ。
「どうせ、マチは強いんだしね」
「別に強いつもりはないよ」
「あたしから見たら完全無欠だよ」
そう言うとえみりは席を立った。マチは引き止められなかった。大事な人との心の別れは初めての経験ではない。実際、浩太と別れもした。けれど、女友達との別れはひどくマチの心を抉った(くじった)。
「ねえ」
それでも、これだけは言っておこうと思い、マチはえみりの背中に声をかけた。言い負かす(いいまかす)ためでも、誤解を正す(ただす)ためでも、言い訳でもない。ただ、えみりに自分が考えていることを伝えておきたかった。
いい 語構成の区切り まか ・ す いひ ─ アクセント 【言 い 負かす】( 動 サ 五 [ 四 ] ) 言い争って相手を負かす。言い勝つ。 「相手を ─ ・ す」 可能動詞 いいまかせる
「これから言うことは聞き流してもらっていいんだけど」
「……なに」
えみりは振り返り、冷たい目でマチを見ていた。
「撃たれて死んで肉にされて食べられる動物にとっては、撃った人が男か女かなんて関係ないんだって」
なるべく冷静な声で言う。それはえみりからすると強がり(つよがり)と捉えられるだろうか。別にそれでもいいや、とマチは続けた。
「お金があるかないか、性格がいいか悪いか、そんなの関係ないんだって」
新田が言っていたことと、ニュアンスは少し違う。しかし、マチが受け取った言葉の意味を再び構成してみる。えみりの今の心にも届くように。
「私きっと免許とって銃を撃つよ。いいお師匠見つけたし。そして狩猟をする。私は私なりに真面目にハンターになる。でも、撃たれた動物には私の考えは関係ない」
「何が言いたいの」
マチも具体的に何を受け取ってほしくて口を開いているのか分からない。ただ、言葉にしているうちに考えの輪郭が見えてきた。
「私が間違ってるとか、えみりが正しいとか、誰がどういう理由で生きづらいとか生きやすいとか、そういうの全部、関係ないところに私は行く」
えみりは再び背中を向けた。「なにそれ」と零れた声は小さいが泣いてはいない。踵(くびす、かかと)の外側が減ったブーツが、少し傾ぎながらえみりを遠くに運んでいく。
マチもえみりも、所有している体はひとつ、心もひとつ。どちらもなかなかままならない。
私はさらに猟銃一丁を手にして、どこまで行けるか試してみる。
遠ざかるえみりの背中を見つめながら、マチは自分とえみりの幸運を祈った。