夜明けのハントレス 第9回 河﨑 秋子 2024/10/31
【前回までのあらすじ】札幌の大学に通うマチは、恋人の浩太(こうた)の家にあった狩猟雑誌(しゅりょうざっし)を読んで狩猟の世界に惹かれ、銃砲店を訪れる。店主の堀井から紹介された猟友会会長の新田は、父の会社の取引先である新田工作所の社長だった。新田に、ハンターの情報交換の場(こうかんのば)になっている事務所に来るよう誘われて父と一緒に訪れ、狩猟を始めるまでの手続きについて教えてもらう。
新田の事務所に狩猟の話を聞きに行った帰り道、マチの口数(くちかず)は少なかった。
こうすう 3【口数】① 人口数。
くちかず 0【口数】 ① 話をする回数。言葉かず。「すこし―が多すぎる」「―が少ない」 ② 食費のかかる人の数。「奉公に出して―を減らす」 ③ 一口(ひとくち)単位になっている申込金・寄付金・出資金などの個数。
各種手続き、費用面の問題など、乗り越えるべきハードルは思ったよりも多く、高い。しかしそれに怯んで(ひるんで)いるのではなく、新田らが口にした、狩猟をする動機の話が胸の中で存在を主張している。
なぜ自分が銃を持ち、狩猟をすることに心惹かれるのか。まだうまく説明することができない。行動に移すうちに動機がわかるのかもしれない。それは、まだ見ぬ心の領分を暴くようにも思えて、心の芯が緊張した。いや違う。トレイルランをしていた時の、スタート前の気分に似ている。緊張しているのではなく、集中しているのだ。全身の毛穴(けあな)が開いているような気がして、マチは無意識に腕をさすった。
「寒い? 暖房(だんぼう)つけるか」
「あ、ううん、大丈夫」
父の義嗣(よしつぐ)の気遣いを断って、マチは父もすっかり無口(むぐち)になっていたことに気付いた。そして、新田の事務所でうっすら感じていたことを口にする。
「パパ、新田さんのところであまり前に前にって感じじゃなかったね」
「爸爸,你在新田同學那裡看起來不太主動。」
「うん」
新田のところへの同行を申し出たが、完全にマチの保護者として見守る姿勢に終始していた。
「狩猟免許とらないの?」
「興味があったのは本当。でも、やめておこうかな」
父はそう言って、どこか言葉を探すように頭を掻いた。その間もボルボは夕方の幹線道路を自宅にむけてスムーズに走る。
「マチが小学生の頃さ。三、四年生だったかな? 友達の家で生まれたコーギーの子犬、欲しがったことがあっただろ」
なんでいきなり、そんな昔の話を。そう思いながらもマチはうん、と頷いた。
「覚えてますとも。友達も、友達のお父さんお母さんも、うちのママもぜひ、って話だったのに、パパが反対したから諦めましたー」
茶化すように言ったし、別に今さら恨んでいるわけでもないが、あの時は本当に、この世の終わりかと思うほどに悲しかった。
普段は懐の深い優しい父親が、「絶対にダメ、パパは動物飼うのは嫌だ」と頑固に拒んで許してくれなかったのだ。マチが頼んでもダメ、弟の弘樹が泣いてもダメ。母や事情を知った家事代行の吉田がとりなしてもダメ。結局、子犬は違う家に貰われていった。コーギーの件以外でも、父は決してペットを飼うのを許してくれなかった。
とりなす 【執り成す】 ▸ 2国間をとりなす⦅調停する⦆ ⦅やや書⦆ mediate | míːdièɪt | between the two countries. ▸ 彼は社長に私のことを上手にとりなしてくれた ⦅やや書⦆ He interceded | ɪ̀ntərsíːdɪd | with the president for me [on my behalf].
「パパ、アレルギーってわけじゃないんだよね。そんなに犬嫌いなのは、なんで?」
「別に嫌いじゃないよ。むしろ好きだった」
え、とマチは思わず身を乗り出した。胸元でシートベルトがロックされる。父は「んー」と言いづらそうに唇をへの字に曲げた。
「あの時は言わなかったけど、もうマチも大きくなったし、いいか。パパ、子どもの頃さ、兄貴とこっそり拾って育ててた野良犬を、目の前で車に轢かれちゃったことがあってさ」
ひく 【轢く】【車が人などを】run* … over [down]. (!後の方は「はねる」の意) ▸ 彼は車にひかれたHe was run over [was run down, ⦅英⦆ was knocked down] by a car. (⇨轢 | ひ | き殺す) ▸ 何か黒いものが突然前方に飛び出してきて私はもう少しでひきそうになった. かろうじて避けた Just ahead of me something black suddenly jumped out, and I narrowly missed it.
父の兄、ということはマチの伯父でポラリス製菓の現社長だ。兄弟で社長と専務をしているぐらいなので、今も昔も仲は良い。それにしても、目の前で轢かれて死んだとは。マチの眉間(みけん)に皺が寄った。
「見ちゃうのは、辛いね。大人でも辛い」
「あの時のショックでね。ペットとして大事に飼ってたとしても、天寿を全うさせたとしても、生き物が死ぬのを見るのは嫌だった」
それが犬を飼うのを拒んだ(こばんだ)理由か。たったそれだけで、と呆れるのは簡単だ。だが、初めて見る青筋立てて反対した姿と、可愛がっていた動物が突然死んだ時に感じたであろうショックを思うと、父の中にはきっと揺るぎない意思が横たわっている。本人にも動かすことはできない。
「パパと伯父さんは、なんでこっそり飼ってたの」
「稼業が菓子屋なんだから、毛が抜ける動物はダメだって、おじいちゃんおばあちゃんがね」
ああ、とマチは納得した。父の実家は敷地も広ければお手伝いさんの手もあり、犬一匹飼うのに十分な余裕はあっただろう。しかし商売上の矜持(きょうじ)はそんなこととは関係ない。新田のところに行く途中、商売人の矜持を聞いていたマチは父方の揺るぎない信条を理解した。動物は飼えない、経緯は違えどそう教えられ、マチ同様に幼い頃の父と伯父もきっと憤った(いきどおった)のだ。
きょうじ 1―ぢ 【矜持】・―じ 【矜恃】 自信と誇り。自信や誇りを持って,堂々と振る舞うこと。きんじ。プライド。「学生としての―を持て」 きんじ ―ぢ 1【矜持】 「きょうじ(矜持)」の慣用読み。
「話は戻るけど。正直、マチが狩猟やりたいって言った時、昔と違って今は害獣駆除の重要性も増してるし、狩猟をやることで会社以外で世の中に貢献できる可能性とか、広がるかもしれない人脈とか、個人的なメリットをちょっと考えていたわけなんだけど」
大きな交差点の赤信号で止まったタイミングで、父が続けた。
「さっき、新田さんの話を聞いてさ。個人的な体験として犬が死んだときのことを思い出したんだ。たぶん俺は、自分の手で生き物を殺したら、ネガティブな経験と感じる気がする。良い悪いじゃなくて、過去の出来事からして」
うん、とマチは頷いた。弱腰だとか、臆病だとか、そんなことは微塵も思わなかった。パーソナルな趣味として自分には向かないときちんと判断し、手を出さない決断をした父を、むしろ誇らしく思った。生き物の死に関する感覚を、血の繋がった実子(じっし)のそれと別個のものとして遮断するのは、きっと簡単なことではない。でも父はそれができた。
青信号で車は発進し、大きな手が伸びてきてマチの頭にのった。撫でる、というより発破(はっぱ)をかけるような手つきだった。
はっぱ 【発破】 (a) blast. ▸ 発破をかけて巨岩を砕く blast a huge rock (with dynamite). 発破をかける ▸ 彼に発破をかける⦅強い口調で励ます⦆ spur [urge] him 〘to do; into doing; to+行為〙.
「だから、この先はマチに託すよ。いやごめん、託すっていうのは違うな。マチがそっちの道を究めるのを、大人しく後ろから見守ることにする」
「わかった。ありがとう」
本当はもっと、上手な返事の仕方があるような気がする。そう思いながらも、マチは父の前でただの娘としてごくシンプルな感謝を示した。
「やめたいと思うまではやってごらん」
ごく軽い口調で父は言った。マチには幾度か聞き覚えのあるフレーズだった。自分のみならず、兄も、弟も、何かをやりたいと希望した時に、父は幾度となくこの言葉を使い、圧力なく背中を押してきた。
「まずは十月に入ったら、新田さんに連れて行ってもらうね」
「うん」
父は頷きながらも、「たーだーし」とわざと固い声を出した。
「危険なことには気を付けて。あと、大学の成績に影響あったらさすがに怒る」
「はーい」
親の合意を取り付けるどころか、温かく背中を押してもらえるとは思っていなかった。マチはほっとした一方で、まだ両親にはかなわないな、と自分の幼さを自覚した。きっとどれだけいい成績で大学を出ても、父ができない狩猟で獲物をとれても、おそらく親にはかなわない。それは決して不快な感覚ではなかった。
それから家に着くまで、父娘は今後の具体的な話を詰めていった。
一連の費用は、マチが卒業旅行のためにバイトで貯めた金から賄うことになった。もちろんそれ以上に必要になることは明らかだ。その場合は父から借用書つきで借りる。何にどれだけ必要なのか、その都度明らかにすることも条件だ。
また、家の中でガンロッカーを置く場所、弟の弘樹や吉田にきちんと説明して納得を得ること。あとは、トラブル防止のため、猟銃を所持しても信用できる人以外に知らせるのは避けること、などが決まった。祖父や伯父など、親戚に伝えるのは父が請け負ってくれた。そして、マチが自力できちんと説明すべき相手にメッセージを送り終えた時、車は家に到着した。
うけおう 【請け負う】 〖契約する〗contract ; 〖仕事などを引き受ける〗take* … on, ⦅書⦆ undertake*(⇨引き受ける). ▸ その会社にその仕事を請け負わせる give the company a contract for the job. ▸ 彼はその家の建築を請け負った He contracted for the house [to build the house].
「で、話したいことがあるって何?」
会うと約束していた夜、マチは幾度か一緒に行ったことのある多国籍料理店に浩太を呼び出した。仕事を終えてスーツ姿であらわれた浩太は、少し疲れはあるようだが表情は明るい。浩太がいつか似合うと言ってくれた大人っぽいラインのワンピースを着て正解だったと思う。
浩太の顔は少し日に焼けていた。先週、大学時代からの友達と一緒に夕張の山中までボルダリングに出かけたのだという。
ボルダリング 0bouldering 〔ボルダーは大丸石・巨礫(きよれき)などの意〕 フリー-クライミングの一。飛び降りられる程度(通常 5メートル 程度)の岩や壁を,ロープを用いずに自由に登るもの。 →フリー-クライミング
快活で、活動的で、人懐こい。欠点や呆れる点もないではない恋人だが、マチが惹かれる浩太の長所だ。こういう行動的な恋人に自分が狩猟の道に入ることを応援してもらえたら心強いし、もし一緒にやってみることができたらさぞ楽しいことだろう。
「あのね、別に構えてまで言うことじゃないんだけど」
マチからいつになく零れる(こぼ・れる )笑みに、浩太は良いニュースを期待しているようだった。
「私、狩猟(しゅりょう)の免許を取ることにしたの」
「へえ!」
多少(たしょう)、サプライズも込めて言った言葉に、浩太はすぐに笑顔で反応した。直後、その上手な笑顔が強張る。
「え、ごめん、もう一度。免許って、なんの?」
「だから、狩猟免許。害獣駆除(がいじゅうくじょ)で鹿とかクマとか撃つやつ」
「え?」
クマ? と浩太は首を傾げる(かしげる)。眉間(みけん)に軽く皺を寄せていた。
「なんで? え、ちょっ、話が見えない。なんでそんなもんに興味持っちゃったの? いつから?」
「ええとね」
浩太が当惑する可能性があることは想定していた。なので、マチは最初から丁寧に説明する。誕生日の翌日に浩太の家で見つけた雑誌を見たのがきっかけだったこと、それで大学近くに銃砲店があるから見に行ったら父の知り合いでもある猟友会の会長がいたこと、後日彼の元に父と話を聞きに行ったら大変そうだけど実現不可能ではないようだと分かったこと。
そして、マチが自分の知らない世界に足を踏み入れてみたいことを、運ばれてきた各種料理をつつきながら言葉を尽くして説明した。
「あー、ごめん。ちょっとびっくりしてキャパオーバーしてる」
「キャパオーバー」という言葉は、主に容量や限界を超えてしまうことを指します。たとえば、仕事や勉強、感情的な負担などが多すぎて、自分の処理能力を超えてしまう状態を表現する際に使われます。
「うん、とんとんと話が進んじゃったから、事後報告になってごめんね」
浩太はトルティーヤの包みを開けたり開いたりし、下を向いたまま「つまりは」と口を開いた。
トルティーヤ 3スペイン•tortilla ① スペイン風オムレツ。 ② メキシコ料理で,トウモロコシ粉を水でとき,薄焼きにしたもの。肉や野菜を包んで食べる。トルティリャ。 →タコス
「マチは、銃持ってハンターになるんだ」
「うん。どこまでやれるかは分からないけど、挑戦してみたいなって。浩太は、興味あるんでしょ?」
雑誌『狩猟Life』を持っていたことを考えると、少なくとも情報を得ようとしていたのだろう。マチは肯定(こうてい)の返事を待った。
「いや、うん、ほら俺洋画好きだし、同期がグアムで射撃やって楽しかったっていうから銃ってカッケーな、と思って雑誌買ったんだけど、まだちゃんと読んでなかったっていうか」
「じゃ、帰ったらちゃんと読んでみるといいよ。それで、もし面白そうだと思えたら浩太も免許挑戦してみない?」
とてもいい考え。そう信じてマチが明るく言うと、浩太は少しぎこちない笑顔を見せた。
「うん、そうだな、考えてみようかな」
妥当(だとう)な答えだ。ここで「面白そう、俺もやる」「なんか怖いからやめとく」と白黒(しろくろ)つけずに、ゆっくり検討してから決定して欲しい。マチも一つ一つ手探りで進む道を見出したのだ。浩太も同じ慎重さで向き合ってくれることをむしろ喜んで、マチは手に取ったピザを頬張った。
その夜は、「明日の朝、残した仕事やらないといけないから」という浩太の言葉で食事を終えてすぐに解散した。検討してくれて嬉しい。もし自分はやらない、という結論になってもけっしてその姿勢にネガティブな印象は受けない。数日もすれば浩太は結論を出してくれるだろう。マチはそう確信して、ベッドに入った。気分の穏やかさから、眠りはすぐに訪れた。
夜中の一時、マチは電子音で目を覚ました。枕元に置いたスマホの画面が光っている。LINEの通知は「ごめん」という言葉から始まっていた。
浩太は一緒に狩猟やらないのか。残念だけど仕方がない。そう思って、マチは寝転がったままアプリで全文を確認する。
『俺はちょっとやめとく』『マチがやることには反対しない』『大変だろうけど頑張って』『応援してる』
恋人に対してではなく、趣味の異なる友達に送るような距離をおいた文言が途切れ(とぎれ)途切れに続いた。
そういうことか。
マチはスマホを胸の上に伏せて、ふーっと息を吐いた。相手に期待して浮かれる程度には、浩太のことをちゃんと好きだったらしい。やんわり距離をとられてようやく、自分の心の一部が恋人に寄りかかっていたことが分かった。そして、その寄りかかる相手が離れていっても、別にバランスを崩して倒れそうにないことも。
やんわり 【やさしく】gently ; 【穏やかに】mildly. ▸ 泣いている子にやんわり話しかける speak gently to the crying child. ▸ 「そのとおりです」と彼女はやんわり答えた “That's right,” she answered mildly.
「なんだよ」
マチは呟くとスマホの画面を開いた。多分、向こうから連絡はもうこないのだろう。頑張って、という言葉に返答するふりをして、マチは『ありがとう』とだけ言葉を送る。そして、浩太のアカウントをブロックした。
浩太と実質上別れ、マチは一週間程度はさすがに気分が落ち込んだ。相手に受け入れてもらうのにもっと違う言葉を使って説明すればよかったのか。それとも自分で思っていたほど浩太のことを理解しきれていなかったのか。狩猟に挑戦したいという要望はそれほどまでに受け入れてもらえないものなのか。分からないまま春が終わり、じわりじわりと夏が過ぎていた。新田と約束した猟期が近づいてきた。