夜明けのハントレス 第1回 河崎秋子(かわさき あきこ)2024/09/05
2024年、『ともぐい』で直木賞受賞。
一 ピースと直感(1)
息をするな、とは言われなかった。けれどマチは無意識に呼吸を止めた。隣にいる新田(にった)がスコープをのぞき、引き金に指をかけた時から、瞬きひとつしなかった。
そっと覗き見た新田の横顔に、さっきまで穏やかに狩猟(しゅりょう)の説明をしてくれていたおじいちゃんの面影はなかった。実際の六十代後半よりかなり若く見えるわけでもない。
年齢など関係ない。ただ生き物をこれから殺す人間の目だ。こういう鋭さがきっと要る(いる)のだ。マチは呼吸をしないまま、心に刻んだ。
パン。発砲音(はっぽうおん)は特に暴力的ではない。ただ大きな破裂音が森に響き渡る。マチは発砲時には耳を塞ぐように言われていたことを思い出した。緊張ですっかり忘れていたことを反省(はんせい)したが、発砲音そのものの大きさを
視線の先、およそ五十メートルほど先で、エゾ鹿(蝦夷鹿)がかくんと足の関節を折り、緑の斜面をずるずると落ちてくる。クマザサ(熊笹; 隈笹)が下敷きになって、ザザザ、と重そうな音がした。
新田が膝立ち(ひざだち、kneeling)の姿勢から立ちあがって鹿に近づいたので、マチもオレンジ色のベストを慌てて追う。邪魔をしないように、なるべく息を殺して三歩分(さんぽぶん)の距離をあけて後ろに続いた。
エゾ鹿は斜面の半ばほどで止まっていた。動物園にいるポニーよりも大きな体に、立派な角(つの)。全身を覆う(おおう)焦げ茶色の毛。既にこと切れている(すでに亡くなっている)のか、暴れる様子はなかった。見開かれた黄色っぽい目の中央部分が、ゆるゆると広がって黒目勝ちに見える。瞳孔(どうこう)が開くってこういうことか、とマチは唐突に理解した。
「ここさ、ここ」
新田は弾倉(だんそう)から弾を出し、鹿の頭側に立つと、鹿の頭部を指し示した。頭骨と、長い首との接点にあたる首の右側部分で、毛が乱れたようになっている。
新田は片方の角を掴むと、ぐいっと捻って(ひねって)鹿の頭の反対側を見せた。左側の側頭部(そくとうぶ)と首の境目に穴が開いていて、動かされ押し出された血が泡のように湧きでた。溢れた血はみるみる毛(け)に染みこんでいく。
鹿が滑って(すべって)きた斜面をよく見ると、クマザサの葉に、首から流れたらしき血がこびりついていた。ここに撃たれた鹿がいて、その血がついたのだと知らなければ、ただの濃い緑として血の存在すら分からなかったかもしれない。一度こうして鹿の死体を前にして初めて、緑に紛れた血の痕跡が分かるようになる。へえ、とマチは思った。自分の目に映る世界が変わった。
「いい具合に首に当たった。右側から脊髄(せきずい)を破壊して、こっちから出た」
新田が改めて、銃弾が当たった場所について説明する。「なるほど」とマチは頷いた。新田は担いで(かついで)いたハーフライフルにカバーをかけて斜面に置き、ベルトにくくりつけた(to fasten)ナイフシースのボタンを外した。刃渡り(はわたり、length of a blade)十五センチほどの、使い込まれよく研がれたナイフが木漏れ日(こもれび(を反射する。
「解体ですか?」
「まあそれもだけど、まず止め刺し(相手を完全に仕留めること」
新田は慣れた手つきでナイフを右手で握り、鹿の上体近くでしゃがみこんだ。そのまま、首と胴体の付け根部分に刃を差し込む。マチは思わず自分のデコルテのあたりに手をやった。
ナイフは胸骨(きょうこつ)の上の方に柄の近くまで沈み、そのまま百八十度刃を返された。大した力は入っていないようだった。
ほんの小さな動きだったのに、ナイフを抜いた傷口(きずぐち)からは噴水のように鮮血(せんけつ)が噴出(ふんしゅつ)した。おお、とマチは思わず声に出した。新田がふふっと笑う。もう元の、人が良さそうな表情に戻っていた。
「今さらだけど、マっちゃん、血は大丈夫なのかい」
「別に好きじゃないですけど、大丈夫、みたいです。こんなに血がドバドバ出ると思ってなくて、ちょっと驚きました」
「まあねえ」
淡々としたマチの感想を、新田もごく静かに受け止めた。
新田が解体に適した場所を求めて周囲を見回している間、マチはそっと軍手(ぐんて)を脱ぎ、鹿の腹に触れてみた。まだ温かい。当たり前だが、死んだ生き物の温かい肉に触れる機会なんて、これまでなかった気がする。
ふと、指先に何かもぞもぞとしたものが触れた。よく見ると、鹿に触れたマチの中指を、黒っぽいダニが這い登っているところだった。寄生していた主が死んで血流がなくなったため、これ幸いと新しい宿主にとりつこうということか。
「なるほど」
マチはピッと指を弾き、ダニを遠くに飛ばした。鹿は死んだ。寄生していたダニも生き方を変えた。そして自分は初めて生き物が撃ち殺されるところを目撃して、今のところ大きなショックを受けてもいないらしい。
マチの初めての狩猟見学は、こうしてごく静かに進んでいった。初めてのことばかりだ。山道から逸れて(それて)ダニまみれになって藪を漕ぐことも、さっきまで生きていた鹿が死ぬところを見届けたのも。獣の体臭と血の臭いが混ざって鼻に入り込んでくる。
不思議と嫌な気持ちはなかった。怯えも、拒否感もない。妙な興奮さえない。気持ちが凪いで(ないで)いる。この感覚は覚えがある。かつて長距離走(ちょうきょりそう)からトレイルラン( trail runner)に転向し、初めて一人で藻岩山(もいわやま)を走り抜けた時以来の、とても『しっくりきた』感じ。
しっくり来る 【しっくりくる】 (exp,vk) to feel right; to sit well with one; to be happy about; to suit to a T; to fit well together
「これだ」
新田に聞こえないようにマチは呟く。自分のパズルのピースがはまるべき場所を見つけたような気がした。そして、もし自分が新田のように銃を撃ち、鹿を仕留めたのなら、そのピースが収まるべき場所に収まるような確信があった。
岸谷万智(きしたに まち)が銃で撃たれた鹿が死ぬところを初めて見て、自分も狩猟をしたいと感じたのは二十歳の秋。狩猟そのものに興味を抱いたのは、その半年前に遡る。
札幌で平和な大学生活を送っていたマチは恋人の浩太(こうた)のアパートでごろごろと時間を潰していた。
浩太はマチより五歳年上の社会人であり、この日は前夜にマチの二十歳の誕生日を祝い、そのまま浩太の部屋に泊まり込んでいたのだ。
シャワーを浴びる浩太が出てくるのを待ちながら、マチは借りたオーバーサイズのTシャツに手を突っ込んで背中を掻いた(かいた)。汗の名残でべたべたする。自然と、昨夜のことが思い出されて溜息が出た。
自動車販売会社の営業で、本人曰く『上司に目をかけられている』浩太は、マチのバースデーにあたって、若干背伸びをしたようだった。すすきのと大通の境にあるビストロにマチを案内し、コースディナーと事前に頼んでいたらしい二十年ものの赤ワインを披露した浩太は、上機嫌を通り越して自慢げだった。
「二十歳の誕生日、おめでと」
「ありがとう」
乾杯の時、礼を言ったマチの感謝に嘘はなかった。しかし、食後のハーブティーを飲む頃になると、マチはそっと浩太から視線を外した。窓の外では人々が無表情のまま行き交っている。皆、ひどく真面目そうに見えた。
「何か新しいことでも始めようかな。二十歳だし」
ぽつりと零すと、浩太は律義に「いいねそれ」と呟きを拾った。
「俺も二十歳の時に友達から誘われてサーフィン始めてさ。まだ暗いうちから車で厚真(あつま)行って波乗って、それから昼の講義受けたら眠いのなんのって……」
さも面白おかしいように語られる浩太の話を、マチはにこにこと聞いた。今日の食事はずっとこんな感じだった。浩太が会話を主導したがるのはいつものことだが、今日は特にその傾向が強い。
ビストロを後にし、浩太のやたらピカピカな車で彼の部屋に行くのはいつもの流れで、マチは文句を差しはさむこともなかったが、誕生日ぐらい家で家族と祝いたかったな、という本音を隠し通すのに苦労した。
マチはベッドの上で全身を思い切り伸ばした。男と体の関係で肉体を使うよりも、トレイルランのロングディスタンス部門で早朝から夕方まで一日走っていた方が筋肉が喜ぶ感じがする。
せめて早くシャワーを浴びたいのに、浩太はまだ出てくる気配がない。水の音と湯沸かし器(ゆわかしき)の音がずっと、途切れることなく続いている。彼は体を洗う時も、頭を洗う時も、ずっと湯を出し続けるのが癖なのだ。
一度、「体や頭洗う時はお湯止めれば? もったいなくない?」と口を出したら、「別にこんぐらいよくない? 俺、子どもの頃からこうしてるし」とまったく意に介さないようだった。しかも、「マチの家、金あるのにみみっちいのな」と鼻で軽く笑われさえした。
みみっちい (adj-i) tightfisted; stingy; miserly; small-minded
実際、恋人に言われるまでもなく、マチの家は裕福(ゆうふく)だ。父親の実家は札幌が本社で全国展開をしている企業の創業者一族。父はそこで重役として社長である伯父(おじ)を支えている。
さらに、元スキー選手だった母は、実業団時代の伝手(つて)と技術を活かして、会員制の女性用フィットネスジムを経営している。こちらの収益も大きく、このダブルインカムによって自宅は円山の高級住宅地に建てられている。
マチを含めきょうだい三人は、誰から見ても恵まれた環境で育てられたし、マチにもその自覚はある。浩太に言うつもりはないが、昨夜彼が連れて行ってくれたビストロは実は以前からの家族の行きつけで、いつもワンランク上のコースを頼んでいる。浩太の自慢げな態度にいちいち感嘆するマチの姿を、顔見知りのスタッフたちは見て見ぬふりしてくれたのだ。
マチはさらに四肢(しし)を伸ばした。その拍子に、ベッドの横に積まれた本の山に拳がぶつかり、バサバサと派手な音を立てて倒してしまった。
慌てて身を起こし、元通りに本を揃えていく。それらは全て、アウトドア雑誌やキャンプ情報のムック、それに類する単行本らしかった。マチは片づけるついでにそれらの表紙にざっと目を通す。グリーンの背景に、アウトドアウェアやキャンプギアが並ぶ写真が多い。
ムック (n) (from m(agazine) + (b)ook) book with the look and layout of a magazine
本の山を直しながら、特に興味もなく、時間つぶしのように表紙をめくって眺めていると、ようやくシャワーの音が止まった。浴室のドアが開く音がして、少しすると短パンTシャツ姿の浩太がバスタオルで頭を拭きながら出てきた。
「マチ、お待たせ。シャワーいいよ。……あれ、なんか面白い本あった?」
「ああ、うん、ごめん。ぶつかって倒しちゃって。アウトドアの本、増えたね」
「うん」
浩太は楽しそうに笑うと、足を肩幅まで広げて腰に手を置いた。
「キャンプとか、沢登りとか、そういうの好きなお客さん多いから話題作りにもなるしね」
つまり、本人は特に魅力を感じている訳ではないが、商売上のメリットから手を出したり知識を蓄えたりしているわけだ。マチは特に興味を惹かれることもないまま、苦笑い(にがわらい)してページを繰った(くった)。浩太の話は続く。
「アウトドアギアがたくさん積めるような車が欲しいって言われてもさ、どれだけ必要か自分で分かってないと的確(てきかく)なおすすめもできないしさ」
「ふーん」
自信ありげに仕事と自分の姿勢を語る恋人の話を聞き流しながら、マチは『登山(とざん)・トレッキング(トレッキング)入門』に手を伸ばした。山、という文字を見て、自分のふくらはぎがぴくりと震えた気がした。
マチは高校時代、本来部活に投じるべき情熱をトレイルランニングに捧げていた。中学までは陸上部で長距離のエースを張っていて、都道府県対抗の代表として都大路(みやこおおじ)を走った経験もある。
走るのは楽しかったし、高校もその方向で推薦の話をもらったが、マチとしては人生をかけるほどの情熱を持つことができなかった。元オリンピアンである母が語るようなストイックさを自分はとても持てない、と早々に感じてしまったせいかもしれない。
そこでマチは、自前の学力で進学校に進んだ後、部活にも塾にも属さずに毎日家の裏にある山を走った。住宅地近くといっても時にクマの目撃情報が出て閉鎖されるほどの山だったから、マチはトラック競技や街中での長距離競技にはない傾斜や、木々に囲まれた風景を楽しんだ。平地で走っていた頃とは違う筋肉を足に纏い(まとい)、タイムを計る(はかる)ことなく走るのは自分の心身(しんしん)に合っているような気がした。
そのうち、両親の勧めでニセコや大雪山系(だいせつざんけい)などで行われる道内のトレイルラン大会の高校生部門にも出場し、常勝(じょうしょう)を誇るようになった。一度、母の知り合いの伝手(つて)でヨーロッパアルプスのジュニア大会にまで遠征したこともある。
トレイルランニングの世界は、マラソン選手のようにプロの世界もあるにはあるが、あまり一般的ではない。マチも頑張ればそのレベルにまでいけたのかもしれないが、選手として総力を挙げようとすれば楽しさが削がれるのは中学までの経験でよく分かっていた。だから、トレイルランは、今にいたるまであくまで趣味として細々と続けているだけだ。
とはいえ、何かが物足りない。ぼんやりした思いを引きずりながら、次の雑誌を手に取った。そして、その一冊だけ他と毛色(けいろ)が異なっていることに気づいた。
「なにこれ。『狩猟Life』。……浩ちゃん、狩猟するの?」
「んー? ああ、狩猟とか、鉄砲の雑誌な、それ。なんかかっこいい気がして、アウトドアコーナーにあったから買ってみた」
「へえ……」
浩太の話に適当に相槌を打ちながら、厚手の雑誌をめくる。映画でスナイパーが使うような銃身の長い銃や、オレンジのベストと帽子姿で山に入っている人の写真が載っていた。今まで見たこともない世界だ。マチはシャワーを浴びることも忘れたまま、狩猟雑誌のページを一枚一枚、ゆっくりと繰っていった。