ツチヤの口車 第1351回 土屋 賢二 2024/07/27
遅筆(ち ひつ) にも理由がある
大作家(だいさっか)の中にはことばを一つ考えるのに1日かける人もいるが、わたしも同じタイプだ。わたしの文章を子どもが書くような文章だと思う人がいるかもしれないが、子どもはことばを見つけるのに1日かけたりしない。太っ腹(ふとっぱら)なのだ。
わたしが遅筆なのは、表現を思いつけない上に、思いついた表現のうち、どれが一番適切な表現か判断するのに大作家を上回る時間をかけているからだ。最近、歳をとって進化したのか、ことばを思い出すのにさらに多大な時間を要するようになった。加えて、どんなことばを思い出そうとしているのかを思い出せなかったり、ことばを思い出そうとしていたのかコーヒーを淹れようとしていたのか分からなくなり、遅筆の大作家を完全に凌駕する時間をかけるようになった。
本欄を書くにも起承転結をどうするか、熟考を重ね、考えに考え抜いて、最終的に不発に終わってきた。
それを何とか挽回しようと推敲を重ねては傷口を広げる結果を招いている。
哲学の論文でも筆は遅い。名文家で知られるプラトンは『国家』の冒頭の、本筋には無関係に見える文を何度も書き直した。大哲学者は細部にこだわるのだ。
わたしも著作の数こそプラトンには及ばないが、細部はおろか、本筋そのものを書き換えるほどのこだわりようだ。プラトンの上をいっていると言えよう。
論文の執筆を依頼された場合、構想に1年はかける。あらゆる論点を網羅し、一点の疑問もなく、すべてに解決をつけるにはそれぐらいの時間は必要だ。どんなに簡単自明なことでも、哲学者が議論すると何時間も何日も反論の応酬が続き、まず決着がつかない。ほとんどの問題を2000年以上も議論し続けているのだ。だからわずかな疑問点の芽も摘んでおく必要がある(それでも哲学者は必ず反論する。何か言わないと負けたような気になるのだ)。
さらに、その準備期間中に出た論文を読む必要がある。長い歴史で論点はほぼ出尽くしており、新しい論点を提示した論文が出ることはほとんどない。だがたまに革新的論点が提起されたりすると、新しい分野を勉強する必要が生じることがある。
たとえば培養液の中に入れた脳にコンピュータからリンゴの視覚情報を送ると、脳は人間がリンゴを見たときと同じ経験をすると考えられる。ではふつうに人間がリンゴを見ている経験とどう区別できるのか。もしかしたらわれわれは培養液の中の脳ではないのか。
こういう問題を考えるとき、論理学のモデル理論や集合論の観点から論じた論文が出れば、それら論理学の分野を勉強しなくてはならない。その分野の膨大な勉強が必要になり、さらに他の分野に波及すると、数年では無理だ。途中で問題を変更することもできるが、変更しても同じ運命が待ち受けている。
同じ論文集に発表予定の遅筆の友人(しゃべるのも遅いが、食べるのは異常に速い)に電話すると、電話のたびに読んでいる本も研究分野も、本題から離岸流のように離れる一方だと分かり、遅れているのが自分一人ではないと分かったときの安心感は格別だ。それでますます執筆から遠ざかり、ついには執筆は遠い世界のことのように思えてくる。催促する編集者がクビになるか死ぬのを待つしかない状態になってしまう。
書くのが速い友人もいる。哲学者である以上、考えすぎるからふつうより筆は遅いはずだ。昔、わたしと同時期に執筆を引き受けたこの友人に聞くと「構想を練っている段階だ」と言うから安心したが、後で、すでに分厚い本を2冊書き終えて、新たな本の構想を立てていることが判明した。