ツチヤの口車 第1327回 2024/02/03
不便だったころ
便利な世の中になったものだ。
人類は、動物の丈夫な皮膚を失うかわりに、気温に応じて細かく暖かさを変えられ、その上、ドブネズミから((豹)まで模様も変えられる衣服を発明した。
動物の鋭い聴覚を失うかわりに、必要に応じて補聴器から耳栓まで聴覚を調節できるようになった。視覚も、望遠鏡から顕微鏡まで、暗視鏡からアイマスクまで調節できる。
動物の速く走る能力を失うかわりに、人類は用途に応じて多様な移動手段を発明し、陸上だけでも、レーシングカーから車椅子まで、乳母車から霊柩車まで使い分けられるようになった。
中でも目ざましいのは、知的能力を増強したことだ。古代には『イリアス』『オデュッセイア』など長大な叙事詩のような口承文学を支える驚異的記憶力が必要だったが、いまでは記憶力は必要ない。
歳をとって記憶力が衰えても、何の問題もない。紙に書いてある(住所録などを記憶している人は知人のいない人以外、少ない)。紙に書いて保存しておけば記憶する必要はない。書いた紙が捨てられても問題ない。パソコンに記録してある。パソコンが壊れても問題ない。クラウド上に記録してある。クラウドが物理的にどこに置かれているのか知らないが、それが破壊されても問題ない。それほどの破壊が起きたら、わたしも無事ではいられず、死んでしまうだろうが、何の問題もない。わたしの生死を気にするのはわたしぐらいだが、気にするわたしは死んでいる(エピクロスの「われわれが存在しているときには死はまだ来ていない。死が来たときわれわれは存在しない」を参照)。
ただ、何の価値もないわたしの情報を、ここまで厳重に守るのは、3000円の腕時計を5000万円の高級金庫奥深く保管するようなもので心苦しいかぎりだ。
顔を見てだれなのか思い出せないことも将来はなくなる。顔認証によって相手が妻なのかカバなのか判定できるようになるだろう。
文章力が衰えても問題ない。わたしは文章力がなく、作文も日記も親に書いてもらっていたから、文章力が衰える余地がない。文章力が跡形なく失われても問題ない。チャットGPTに文章を書いてもらえばいい。
漢字の書き方を忘れても問題ない。スマホで変換できる。小学生のころ無理して覚えるんじゃなかったと後悔するほどだ。わたしはかつて平仮名の「ぬ」の書き方を忘れたことがあるが、「ぬ」だろうが「れもん」だろうが、スマホを使えば簡単に書ける。
昔は違った。卒論の清書も手書きだった。最初は丁寧に清書していたが、残り時間がないと分かると、途中、100枚の下書きが清書後に70枚になったほど省略しながら書き飛ばし、最後は書き殴った。「始めは処女の如く後は脱兎の如し」を地で行ったのである。
大学の教師になって学生の卒論を見ると、明らかに異なる筆跡が5種類ほどある論文があった。「清書を手伝ってもらいました」と自白しているに等しい。これは教師として放置しておけない。学生に注意した。
「君の卒論は問題がある」
「内容が悪かったんですか? それなら申し訳ありません。友だちに恵まれていないものですから」
「聞き捨てならないぞ。君が書いたかどうかはいずれ口頭試問で分かる。内容以前に、読みづらい」
「時間がなくて友だちに手伝ってもらったんです」
「手伝ってもらうのなら字のきれいな人に頼みなさい。この部分なんか、字が汚くて読めないだろう?」
「あっ、それわたしの字です」
「こ、今後、清書は全部他の人に頼みなさい」