ツチヤの口車 第1342回 土屋 賢二 2024/05/25
残念ながらナメクジではなかった
若さはすばらしい。青春真っ盛り(の時期は人生の頂点だ。生物学的にも、最も充実した活動期だ。
昔、そういう若者を具現(ぐげん)していたのは加山雄三氏扮する「若大将」だった。健康的に日焼けして、悩まず苦しまず、一点の曇りもなく明るく爽やかな青年が、のびのびとして夏の太陽のように輝き、眩しい存在だった。「幸せだなぁ」というセリフをこれほど自然に吐ける人物は他に考えられなかった。
正反対の生活をしている若者もいた。わたしである。20代のころモヤシのように青白く(あおじろく)、哲学の問題が解けないことに煩悶し、いつも鬱々(うつうつ)として、藁にもすがる思いで難解な論文を昼間はカビ臭い図書館、夜は四畳半の下宿の万年床で解読しようと努力しても一日に1、2ページしか進まず(後で分かったが誤解だらけだった)、来る日も来る日も気が晴れず、どこをどう押しても「幸せだなぁ」というセリフなど出てこない泥沼でもがいていた。
若大将がスポーツ万能でドカベン(特別に大形の弁当箱)を一日5回食べるのとは対照的に、わたしは運動もせず、授業にも出ず、生活は不規則、若者らしい旺盛(おうせい)な食欲もなく、食堂で注文するのも餃子1皿だけだったりした。何よりの楽しみは大学食堂のポタージュだった。寸胴鍋のポタージュの脂が浮いた部分を食堂のおばさんがすくってくれるのをひたすら祈る、痩せこけて不健康を絵に描いたような若者だった。金が入っても栄養補給はせず、無一文になるまでパチンコにつぎ込んでいた。
テレビもなく、笑顔の浮かべ方も忘れ、女性と付き合っても「付き合っている場合か」と自責の念にかられて長続きしなかった。ただ、友だち付き合いも避けていたから「若大将!」と慕う友人は皆無だった半面、子分にしようとする者もいないのは幸いだった。
若大将と同じくギターを弾いていたが、神経質な性格のため小難しい曲ばかり弾いていた。「幸せだなぁ」ということばを発するこだわりのない大らかな心境というものが異世界のように想像できなかった。
下宿先の娘は若大将の大ファンで、「思わず顔がほころんで明るい気持ちになる」と言っていた。正反対だったわたしもそれに泣く泣く同意していた。
若大将とは何の接点もなかった。女性はわたしを見ると遠ざかり、近寄ってくるのは詐欺師だけだ(どんな貧乏人からも金をまき上げようとする者がいるものだ)。スキーにもヨットにも無縁、海は遠く、日焼けすると赤くなってヒリヒリするタチだ。もし若大将の同級生だったら、こんな会話をしていただろう。
若大将「君、青白いけど大丈夫? 船乗ってる?」
わたし「この前、嵐で船酔いしてね。それからしばらく乗ってないんだ【小学生のとき四国へ行く連絡船が台風で揺れて船酔いしたのが船に乗った最後だ】」
「サーフィンはどう?」
「あれ、どうも合わないみたいだ。下痢しちゃったよ【サーフィンは当時普及していなかったから食べ物でないとは知る由もない】」
「えっ、そんなことあるのか。いま何やってるの?」
「哲学で苦悩の毎日だよ」
「あまり悩むなよ。若さは一瞬だぞ。思い切り躍動して青春を謳歌しろよ。海に出れば何もかも忘れるよ」
「そうだな【何もかも忘れては困るんだが】」
若大将が空高く(そらたかく)舞う鷹なら、わたしはナメクジだった。ナメクジだったら、わたしのようにジメジメ日陰で生きる方が健全な育ち方だっただろうが、残念なことにナメクジではなかった。
だが少なくとも言える。青春もさまざまだ。同じように、「高齢期はたそがれだ」というのも一面的な考えかもしれない。