ツチヤの口車 第1341回 土屋 賢二 2024/05/18

音の洪水

 子どもの頃からいままでの間に色々な変化が起きたが、環境の上で一番大きく変化したのは、音だろう。昔はBGM《background music》がなく、静かだった。聞こえる音は、ご飯が炊き上がる音、虫のすだく(chirp)声、蚊帳(かちょう)の中で蚊の飛ぶ音、近所の夫婦喧嘩の声、「ケンジっ! いつまで寝とんなら! 学校に遅刻するじゃろうが!」「なんで時計がいつまでも読めんのなら! 〇〇君を見てみい。スラスラ読めとんじゃ。それをオメエは何なら。泣くなっ! 出て行け!」という怒鳴り声とかわいい子どもの泣き声などが近所中に響き渡っていた。

 それがいつの間にか、一変した。大自然を満喫しようと景勝地(けいしょうち)に行くと、スピーカーから演歌や高校野球の実況(じっきょう)が大音量で流れるようになった。

 音楽は人間には特別な意味をもっている。それを知りたければ、結婚式で「蛍の光」を流すか、お通夜で「ジングルベル」か「チャンチキおけさ」を流してみるといい。

 そこで問いたい。スーパーや家電量販店では、店のオリジナル曲を繰り返し流している。たいてい8小節ほどの曲だ。だがどんな名曲でもエンドレスで繰り返されるとイヤになる。はたしてこういう曲を流して売り上げが伸びるのだろうか。クラシックやジャズが流れている方がはるかに快適ではないのだろうか。わざわざオリジナル曲を作って流すことに意味があるのだろうか。少なくともわたしは一刻も早く店から出たくなるから、逆効果だ。もしかしたら、わたしのような人間に長居をさせないためにオリジナル曲を流しているのかもしれないが。

 店内の音楽はまだ我慢できる。スーパーの中には一画(一劃(いっかく))を仕切って喫茶室を設けているところもある。不可解きわまることに、ここには喫茶室らしくジャズが流されているが、それを上回る音量で、スーパーのオリジナル曲が流され、さらにスーパー店内と同じ音量で「ただいまお惣菜コーナーでは唐揚げと野菜の黒酢和え弁当(くろすあえべんとう)がなんと498円、498円とお買い得価格になっております。この機会をお見逃しなくお買い求めくださいませ」など、販促(はんそく)のアナウンスが入る。もはやカオス(chaos)である。

 本来、喫茶というものは、鹿威し(ししおどし)の音がする閑静な茶室で、雑念を振り払い、明鏡止水(めいきょうしすい)の心境でお茶を味わうものだ。そこに小さく「軍艦マーチ」が聞こえるだけでワビもサビも粉砕してしまう。茶人がスーパーの喫茶室で喫茶を嗜んだら(たしなんだら)気が狂っても不思議ではない。

 喫茶室の音楽をなぜカオスにするのか、そこにどんな営業戦略があるのか理解できない。もっと理解できないのは、その喫茶室に毎日のように通う客がいることだ。最も理解できないのは、その一人がわたしだということだ。

 わたしのほかに常連らしい高齢男性もいて、たいてい本を読んでいる。「なぜこんな環境で読むのか」と思うだろうが、居心地のいい喫茶店が近くにないからだ。公園に行くと不審者扱いされ、足を延ばして図書館まで行くと、静かすぎて重苦しさ(おもくるしさ)に耐えられなくなるのだ(静かすぎるのをイヤがるのは矛盾しているように思われるかもしれないが、矛盾しているように思われる最大の理由は、実際に矛盾しているからだ)。

 それにたぶん家の中がよっぽどうるさいのだろう。これほどうるさい家があるとも思えないが、うるささは音の大きさだけでは測れない。物音一つしない家の中でも、同居人の舌打ちの音一つで耐えられない環境になる。

 こうして最後の手段としてスーパーの喫茶室を選んでいるのだ。最近初めて、耳が遠くなってほしいと思うようになった。

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