ツチヤの口車 第1340回  土屋 賢二 2024/05/11

むすんでひらいて

 われわれは動物を「かわいい」と言って愛玩動物(愛玩どうぬつ)にしたり、乗り物にしたり、食べ物にするなど、好き放題に利用しているが、どの動物も、本気を出したら人間など一瞬で打ち負かすことができる。馬、鹿、犬、ネコ、 、ゴジラ、蚊、ダニ、ウイルスなど、どれ一つとして人間が徒手空拳(としゅくうけん)で勝てるものはない。

 それにもかかわらず、人間は動物に命令し、卵や乳を盗み、食べてさえいる。馬や牛などは、人間よりもはるかに頑丈で運動能力もあり、人間を食べていてもよさそうな体格なのに、唯々諾々(いいだくだく) と人間の言いなりになっている。何を考えて言いなりになっているのだろうか。子どものころのわたしがヒントになるだろう。

 当時からわたしは従順だった。言われたことは無視すればいいとか、抵抗しようなどという考えは頭をよぎりもしなかった。

 アメとムチで従っていたとも思えない。言うことをきくたびに褒美をもらえるわけではなく、言われた通りにしないと痛い目にあうわけでもなかったからだ。

 腑に落ちなかったのは幼稚園のお遊戯だった。手を上げろと言われれば上げ、手を開いたり閉じたりしろと言われれば、開いたり閉じたりした。

 だが先生の言う通り手を開いても何も起きない。手の中から花が出てきたりスポンジの玉が出てくるといった意表をつくことは一切起きず、たんに手を開閉させておしまいなのだ。

 それでも多くの子は大喜びだったが、わたしには戸惑いしかなかった。ふつう「手を開いてください」と言われたら、武器を隠しもっていないか確かめる、手洗いができているかをチェックする、手の運動機能を調べる、肩こりを治す、五十肩を軽減する、ネイルする、手相を見るなど、何らかの目的があるはずなのに、何もない。ただたんに手の開閉をやらせるだけとは夢にも思わなかった。

 こんなことがありうるだろうか。見知らぬ人でも親しい人でもいい、そういう人から「ちょっと手を閉じてもらえますか?」と言われて手を閉じたら、「では手を開いてください」「次に手を叩き、その手を上にあげてください」と頼まれたら、何か目的があるに違いないと思うだろうが、たんに言われた通りにやるだけでおしまいになるのだ。

 そんなことをされたら、ふつうの大人なら怒るはずだ。犬だって何の褒美もやらないで機械的に「お手」ばかりやらせていたら、たぶんしまいには怒るだろう。それ以外の動物なら最初から拒否するだろう。

 おそらく、当時のわたしは、すべての行為は何らかの目的や意味をもっていなくてはならないと考えていたように思う。実際、授業中に拍手したり、手を上にあげたりすると怒られるだろうが、それは、そういう動作がふつう何らかの意味をもっているからだ。そういう意味も目的もなく、動作だけをさせられたら戸惑うのも無理はない。

 ラジオ体操もそうだった。意味が見出せなかった上に、早朝のラジオ体操は眠いだけだった。寝ていた方がよっぽど身体を激しく曲げたり伸ばしたりしたはずだ。

 踊りもそうだ。学芸会で「かわいい魚屋さん」や「うさぎのダンス」を踊らされたが、まったく意味が分からなかった。

 いまでは分かる。手の開閉もダンスも何かの目的のためにやるものではなく、行為それ自体を楽しむものだ。それが芸術や娯楽の特徴だ。幼いころから音楽は目的なしで楽しんでいたのに、そこに考えが及ばなかった。当時から考えが浅かった。

 牛や馬も当時のわたしのように戸惑っているか、楽しんでいるかだ。たぶんどちらでもないと思うが。