ツチヤの口車 第1337回 土屋 賢二 2024/04/13

父の疑念

 どの家にも分担がある。わたしの実家では、箏を教えることと娯楽は母の担当、残りは父が担当していた。

 子育ても父の担当だった。わたしがよちよち歩く後についていたのも父だった。

 演奏会の舞台で弾いているのが母だと分かると、わたしがお乳(おにゅう)を求めて泣き叫ぶので、父が演奏会の合間にお乳をやってくれと母に頼むと、母は着崩れするからイヤだと断ったらしい。

 わたしがブランコに乗れないでいると、他の子をどかして乗せてくれた。本人は野球などしたこともなかったのにバットを作ってくれた。いつも父と一緒だったので、幼稚園の入園テストで、ヒヨコと一緒にいるニワトリの絵を見せられ、「これは何?」と質問されたとき「お父さんドリ!」と答えたらしい。子どもと一緒にいるのは父親だと思っていたのだ。そのとき付き添っていたのは父だった。

 毎朝、自転車で学校に送ってくれたのも父、授業参観にも運動会にも来るのは父だった。みんなは母親が来ていたのに、わたしだけ父だ。それが恥ずかしかった。しかもやさしく見守る参観ではなかった。

 悪いことに、父は気性が荒く、怒ると本気で殺されると思うほどすさまじい剣幕だった。暴力団に向かっていったこともある。

 小学校の入学式のとき帽子をいじってばかりだったことに父が腹を立て、式の後、校舎の裏に連れ込まれて殴られた。父が授業参観に来ると、先生の質問に間違った答えをしたら何をされるか分からないと思って気が気ではなかった。

 だが人一倍やさしい面があった。家の前の道路で台風の風にあおられて新聞配達の少年の自転車が倒れ、新聞があたり一面に散らばったとき、父は裸足(はだし)で飛び出して新聞を拾った。ネコがお産(おさん)をしたときは徹夜で見守った。そのためかネコは父になつき、一時は家に5匹ほどいた。父が買い物から帰ると、どこにいてもいっせいに玄関まで走ってきて5匹(ごひき)がきちんと並んで座って父を迎えた。父の自転車のブレーキの音で父だと分かるのだ。

 わたしが中学1年生のとき大病(おおやまい)で苦しんでいるのを不眠不休で看病してくれたのも父だった。何があっても父はわたしを守ってくれるとわたしは確信していた。

 こうしてみると、アリストテレスが「子どもへの愛情は、父親よりも母親の方が深い。なぜなら自分の子だとより強く確信できるからだ」と言ったのは、わたしに関しては成り立たない。

 大病したころだ。母がわたしと父の足を見て、足の形がそっくりだと言ったことに驚き、違和感を覚えた。なぜ顔や体型を問題にしないのだろうか。軽四トラック(けいよんトラック)とスポーツカーを比べて、座席の色が似ているという理由でそっくりだと主張するようなものだ。

 わたしは母親似(ははおやに)だった。音楽が好きで、夜型(よるがた)で、遊び好き(あそびずき)で、脂っこい食べ物が好きで、落ち着きがないところなど、母に似ている。朝起きて寝ぼけまなこ(眼)で椅子に座る姿が母にそっくりだとも妻に言われた。

 だが、父には顔立ちも体型も似ていなかった。食べ物の好みも体質も短気な性格も違い、父のような朝型でもなければ勤勉でもなかった。似ているのは軽率なところ、ギャンブル好きなところだけだった。

 あまり父に似ていないことは家族も薄々感じていたが、成長すれば似てくるだろうと思っていた。オタマジャクシは親に似ていないが、成長すると親のカエルとそっくりになるのだ。

 だが成長した結果は、期待したほどではなかった。

 晩年、頑健だった父が病院通いをするようになったころ、わたしの妻にもらしたことばは衝撃だった。「賢二がワシの子だという確信がずっともてない」

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