ツチヤの口車 第1336回  土屋 賢二  2024/04/06

感謝の心は必要か

「ありがとう」「ごめんなさい」の2つはちゃんと言えるようにしなさい。こう口を酸っぱくして教えられてきた。教えたのは妻だ。妻自身は、わたしに対してどちらのことばも使ったことはない。

 わたしは感謝も謝罪も数えきれないほど表明させられてきたため、いまでは心の中で鼻歌を歌いながら口に出せるまでになった。そのため、謝らなくてはならないとき、にこやかな顔を作って「ありがとう!」と言って激怒されたほどだ。

 なぜ感謝しなくてはならないのか。人間関係を円満にするためだと言う人がいるが、本当だろうか。むしろ「好意でやってくれたのかと思ったら感謝がほしいだけだったのか。感謝しない相手は助けないのか」という不信感が芽生えるのではなかろうか。

 子どもやペットの世話をするのは愛情からだ。感謝を求めたりはしない。夫婦の間は微妙だ。女は結婚当初、男に食べさせようといそいそと料理を作り、感謝も求めないが、数年たつと、感謝を強要するようになる。最初は愛情から料理を作っていたのに、感謝しない相手には作る気がしなくなる。愛情や好意で作っていたときの方が円満に思える。

 感謝というものが一切なかったわたしの実家はどうだろうか。父は商売のかたわら、家事と育児をすべて引き受けていたが、それが当たり前だと父は思っていた。母を含めて家族全員もそう思って、感謝せず、父も感謝を求めることはなかった。父はペットの世話をしているような気持ちだったのかもしれない。

 母は感謝どころか、「ごはんが温かくない」などと、当然の権利のように文句を言っていた。ごはんが冷めたのは母が箏(こと)を教えるのが長引いたせいだし、ほかの家族は昨日の冷や飯を食べているにもかかわらずだ。

 母が骨折して入院すると、病院食は食べられないと言い(母は好き嫌いが激しかった)、父が当たり前のように毎日作り立ての食事を自転車を飛ばして病院に運んだ(温かくないと文句を言われるからだ)。

 ここまでしても感謝することがない家だった。

 弟がネックレスを買ったときもそうだった。わたしは男がネックレスなどするのを軽蔑(けいべつ)し、そんな物を買うのも恥ずかしいと思っていた。優柔不断(ゆうじゅうふだん)の弟が長時間かけてネックレスを選んだが、帰宅後、「太さが違う」「長さが気に入らない」などと不満をもらし、わたしは恥をしのんで合計4回も交換してもらいに店に行かされた。弟はこだわりが強いくせに自分で交換に行く勇気がないのだ。3度目以降の交換のときの店員のあきれ顔をいまでも覚えている。

 それだけわたしに迷惑をかけていたのに、弟は感謝どころか、買ったネックレスに不満が残っているのか、終止、仏頂面(ぶっちょうづら)だった。わたしも、感謝してもらおうとは夢にも思わなかった。

 その弟は、母のパンツを買いに行かされ、買ったパンツを見た母が「思っていたのと違う」と不満を述べ、当然のように弟は交換しに行かされた。このときも母から感謝のことばは一言も出なかった。

 母がデパートで買った口紅が気に入らなかったときは、父が交換に行かされていた。このときも「ありがとう」の一言はなかった。

 これらの場合はふつうの買い物とは違う。「男のプライド」「男のコケン」があったら、恥ずかしくてとても買ったり交換したりすることはできない。

 だがそれをしのんで奉仕するのが全員、当たり前だと思っていた。だから感謝のことば一つなく、感謝しないと言って怒る者もいなかった。この家は人間関係が円満ではなかったのだろうか。

感謝の心は必要か.png