土屋 賢二 2024/03/09

父の職業

 子どものころ、ほとんど何も分かっていなかった。いまと同じである。

 大人は確固(かっこ)とした世界観、倫理観をもち、明確な原理に基づいて行動していると子ども心に思っていた。そうでなければ、わたしにはどうでもいいように思えること(たとえば弟と将棋をするなど)に父がなぜ激怒したのか、説明できない。初めて訪れた外国で自分の知らないゲームをしているのを見て怒ることができるだろうか。世の中の仕組みや善悪の基準がはっきり分かっていなければ、怒る理由がない。天才棋士への道を断たれたわたしは大人には善悪の明確な基準があるに違いないと思っていた。

 だが大人になって分かったが、何事についても確固たる基準や原則はなく、気まぐれで怒り、行き当たりばったりで暮らしている人ばかりだった。わたしもめでたくその一人になった。

 分からないことはまだあった。家から道路を隔てて広大な塩田(えんでん)が広がっていた。塩田で多くの人が砂を撒いたり集めたりしているのを毎日見ていたが、その作業によってなぜ塩ができるのか、なぜ塩田に入ると怒られるのか(作業をしている人たちは入っているのに)謎だった。

 子どものころは知るべきことが多く、塩の作り方に関心をもつ余裕がなかった。取り組んでいたのは、落書きをして一番見栄えがする壁はどれか、かくれんぼで一番見つかりにくい場所はどこか、十円玉がどんな味がするのかなどだ。

 いま考えても一番不可解なのは父の仕事だ。父は農家の次男で、無一文から始め、家族を養うのに苦労していたのか、わたしに似て飽きやすいのか、職業をよく変えていた。

 わたしが物心ついて、現在の知的レベルになったとき、父は自動車修理工場を経営していた。その前は を営んでいた。家の外壁に大きく描かれたソースのマークがその名残りだった。

 家には自動車が入るスペースはあったが、それだけでは自動車修理工場だということにはならない。ちょうど象が入るスペースがあっても動物園だということにならないのと同じである。同様に、指輪をはめる指があっても指輪があるわけではなく、高級肉が入る胃があっても高級肉を食べているわけではなく、手首があっても手錠をかけられているわけではない。

 問題は、そのスペースに自動車が一台でも入っているのを見たことがないということだ。ただ機械油の匂いはしていたから、機械油があったことはたしかだ。

 父は車を運転することもできず、まして車の構造など知っているはずがない。1人いた従業員も車の運転をするようには見えず、車を買う金があるようにも見えなかった。この従業員はとても感じのいい人だった。後年、帰省したとき、元従業員だった男が「けんちゃんを抱くと、よくおしっこをひっかけられたものだ」と語った。おそらく赤ん坊のわたしがその従業員には気を許したのか、彼をトイレと認識していたかだ。

 他にも色々な人が出入りしていたが、その中に客の姿はなかった。当時は車が走っているのも珍しかったから、需要があるはずがない。需要があっても修理できたとは思えない。熱帯でコタツの修理工場を小学生が開くに等しいと思えた。

 わたしは家の前で金槌やペンチで土をいじったり、砂を食べたりしていたが、思えば工場で働く人より忙しかったと思う。工場で何をしているのか、刑事なら犯罪を疑うところだが、犯罪者にしてはみんなのんびりしていた。それにみんな明るく、生活に不安を感じている様子もなかった。

 やはり事業は失敗だったのか、ある日気づくと家は質屋になっていた。

父の職業.png