町山智浩の言霊USA 第672回 町山 智浩 2023/05/12

Actual Malice(実際の悪意)

 4月18日、デラウェア州ウィルミントンの裁判所で、賠償金額16億ドル(約2160億円)の裁判が始まるはずだった。

 2020年の大統領選挙で、「ドミニオン社の投票集計機がドナルド・トランプ票をジョー・バイデン票に書き換えた」と報道した保守系テレビ局FOXニュースをドミニオン社が訴えたのだ。

 だが、裁判にはならなかった。その日の午後、FOXがドミニオン社に史上最高規模の7億8750万ドル(約1063億円)を支払うことで和解したからだ。

 ドミニオン社の投票機が票を盗んだと言い出したのはトランプの弁護士ルディ・ジュリアーニとシドニー・パウエルだった。ありえない陰謀論だった。なぜなら、アメリカでは、どの会社の集計機がどの地区の票を集計したか公表されているからだ。ジュリアーニが票を盗んだと主張するペンシルヴェニア州でドミニオンが集計したのは14の郡(ぐん)だが、12の郡ではトランプが勝っているのだ。

 また、トランプの弁護士たちはFOXニュースに出演して「ドミニオンの幹部は民主党下院議長ナンシー・ペロシの首席補佐官であり、民主党のファインスタイン上院議員の夫はドミニオンの大株主(おおかぶぬし)だ」と語ったが、それも出鱈目(デタラメ)だった。

 アメリカで名誉毀損(めいよきそん)が成立するためには、中傷した側に「Actual Malice(実際の悪意)」があったことを証明しないとならない。この場合、トランプ側の主張が嘘だと知りつつ、故意にそれを放送したということを。

 それは裁判前に証明された。ドミニオン社の弁護士は当時のFOXニュース社内部のEメールや携帯メッセージを入手し(にゅうしゅし)、裁判所に提出し、公表した。それは、FOXがトランプ側の主張がデタラメだと知っていた証拠だった。なにしろFOXグループの総帥(そうすい)、ルパート・マードック(92歳)自身が「本当にクレイジーだ」と言っているのだから。

「パウエルは正気じゃない」

 いつも番組でトランプをさんざん絶賛していたキャスター、タッカー・カールソンも社内メールで本音を漏らしまくっていた。

「善良なうちの視聴者は不正選挙デマを信じるだろう」「俺はマジでトランプが嫌いなんだ」「トランプに気を使うのはもううんざりだ」「結局トランプは失敗したんだ。トランプが得意なのは何かをメチャメチャにすることだけさ。それにかけては世界チャンピオンだ」

 でも、カールソンはこうも言っている。

「ここで俺たちがうまくやらないと、トランプにやられるぞ」

 カールソンは4月24日にFOXニュースを去った。

 トランプの選挙デマを支持者たちは信じた。そしてFOXのマネをして出てきた、さらに右翼的な新興メディア、ニュースマックスとOAN(ワン・アメリカ・ニュース)は既に陰謀論をバラまいていた。FOXもこの流れに乗らないと視聴者を失う。

「コアな視聴者を取り戻せ」上級副社長のラジ・シャーは言った。「視聴者をキープするのよ」CEOのスザンヌ・スコットも言った。「お得意様を怒らせるわけにはいかない」キャスターのショーン・ハニティも言った。

 お客が求めるニュースを提供する。FOXがCNNを抜いて視聴者を集めた秘訣だ。でも、そりゃ報道じゃない。サービス業だ。

 反対する者もいないわけじゃなかった。「陰謀論には反論すべきだ」と言ったのは元共和党の下院議長でFOXグループの取締役のポール・ライアン。「でないとメディアとしての信用を損なう」

 報道部のビル・サモンも「報道機関としての実存的危機だ」と、陰謀論の放送に反対した。しかしFOXは視聴者への奉仕(ほうし)を選び、サモンを解雇した。サモンは開票速報の際、アリゾナでバイデンが勝つと事実を報道したのでトランプから裏切り者扱いされていた。彼の首を差し出すことはトランプへの恭順の印でもあった。

裁判費用より和解金

 これらの記録はFOXに故意(こい)があった証拠だ。ドミニオンは裁判に勝っただろう。しかし、ドミニオンは裁判が何カ月も続いて裁判費用が嵩んでいくことより和解金を選んだ。

 トランプやFOXニュースに対する批判を続けてきたABCテレビの司会者ジミー・キンメルは「FOXは和解金払うのに、リバースモーゲージのCMを増やさなきゃね」と笑った(FOX needs more reverse mortgage commercials to pay the settlement.)。

 リバースモーゲージ(逆ローン)とは、自宅に住んだまま自宅を銀行に売り、代金を毎月分割払い(ぶんかつばらい)で受け取るシステム。これを老後の生活費にする老人が多い。FOXの視聴者は圧倒的に老人なのだ。

 若者たちのテレビ離れが進み、どのテレビ局も収益を減らしている今、朝から晩までテレビの前に座っている老人たちをメインの顧客にしているFOXニュースは順調にCMで稼いでおり、先日、手元資金は41億ドルと発表した。約8億ドルの賠償金など屁でもない(まったく問題にならない。とるに足らない。)。

 FOXも一応(いちおう)ニュース局だから、今回の和解の件を報道した。たった6分間。まるで他人事のように事実関係を読み上げるだけで、謝罪は一切なし。今回の和解条件には、FOX側の謝罪が含まれていないからだ。

「がっかりだよ!」

 やはりトランプとFOX相手に戦ってきたCBSテレビの司会者スティーヴン・コルベアはその夜の番組で肩をすくめた。

「民主主義のためには、FOXのキャスターたちに『私はウソつきました』と謝らせたかったよ!」

「裁判でルパート・マードックが聖書に手を置いて宣誓(せんせい)して、神罰が下って炎に焼かれるのが見たかったよ!」

 それでも8億ドル払っただけマシ。日本ではテレビが与党政治家の口から出まかせをガンガン垂れ流して別に訂正もしないからね(In Japan, the TV stations are always spouting off what the ruling politicians say, and never correcting them!)!

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リバースモーゲージとは、自宅を担保に生活資金を借入れし、自らの持ち家に継続して住み続け、借入人が死亡したときに担保となっていた不動産を処分し、借入金を返済する仕組みです。 いわば、高齢者向けの貸付制度といえるでしょう。 直訳すると「リバース=逆」「モーゲージ=抵当・抵当権」という意味です。