池上彰のそこからですか!? 第588回 2023/10/06

単なる地図と侮るなかれ(あなどるなかれ)

Q アメリカで大ヒットした映画「バービー」がベトナムで上映禁止になったそうっすね。何があったんすか?

A なんだ、またお前か。映画に登場した世界地図が問題になったんだ。主人公のバービーが現実世界に旅立つ場面の背景に、短時間だけど雑に描かれた世界地図が映し出された。この地図にベトナム政府が怒った。

Q なんで問題になったんすか?

A この地図には、子どもの落書きのような筆致(ひっち)で「Asia」と書かれている地域がある。そこの右側に点線が描かれていた。8本ほどの短い線からなる1本の点線なんだが、このところ中国の地図の点線に悩まされていたベトナム政府がそれにカチンときた。アメリカの映画会社は、中国での興行成績(こうぎょうせいせき)を上げるために中国の主張におもねった(おもねった)のではないか、というわけだ。

Q 中国の地図の点線って、なんのことっすか?

A 中国の点線といえば、中国が南シナ海を9本の短い線で囲み、「ここは中国の海だ」と主張している問題がある。通称「九段線」だ。

 中国は、南シナ海すべてを自分の領海だと主張している。その根拠が九段線だ。主張通りの地図にすると、まるで牛の舌が南シナ海をペロリと舐めたような形になるため、「牛舌線(」または「中国の赤い舌」と呼ばれている。

 しかし、南シナ海は中国の本土からは遠く、ベトナムやフィリピン、ブルネイなどの国々の海岸線近くまでになってしまう。

Q そんな無茶な主張はどこから来るんすか?

A 中国独自の世界観だ。ここで登場するのが、14〜15世紀の人物である明の時代の鄭和だ。

Q そんな名前知らないっす。

A 世界史の教科書に出て来るんだぞ。「大航海時代」というのは世界史の授業で習ったろう。

Q コロンブスやマゼランなどが活躍した時代ですね。

A なんだ、知ってるじゃないか。ところが中国に言わせると、それより100年も前に中国の鄭和が南シナ海やインド洋を航海して中東・アフリカにまで到達している。その時代に南シナ海を開拓し、当時の明の行政範囲を定めたという。ヨーロッパ諸国がアジアにやって来る前に南シナ海を支配していた。だから南シナ海は中国のものだという理屈だ。

Q こんな理屈が通用するんすか?

A これだけなら根拠にならないだろう。こんなことを言ったら、コロンブスが到達した地域はすべてスペインの領土になってしまう.

ただ、問題は現代だ。1947年、当時の中華民国が、地図の上に11本の短い線を引いて南シナ海を囲み、「この海(このうみ)は中華民国の領海だ」と宣言したが、世界は異を唱えなかった、というのが、いまの中国の主張なんだ。そんな宣言には世界が気づいていなかっただけではないかと突っ込みを入れたくなるだろう。地図の上に勝手に破線を引いただけでは、どこが領海の境になるか、はっきりしない。そして1949年、大陸に中華人民共和国が成立すると、中華民国の領海はすべて現在の中国のものになったという主張なんだ。

直近は10段になった

Q でも、このときは11段だったんでしょう。いつの間に9段に?

A 1953年に中国(ちゅうごく)の毛沢東は、隣接するベトナム(当時は北ベトナム)が、同じ社会主義の友好国(ゆうこうこく)だったことに配慮して、11本の線のうち、2本の線の部分をベトナムに譲ったという。残り9本の線を、他国の領海との境界線に定めたという主張なんだ。これが、これまで中国が主張してきた「九段線」の根拠(こんきょ)だ。

 しかし、南シナ海に接する各国(かくこく)は納得しない。ベトナムやフィリピンに言わせれば、中国は九段線の正確な座標を公表したことはない、まるで地図の上にマジックペンで書き込んだようなものだ、というわけだ。

 一番の問題は、1994年に発効した国連海洋法条約を、中国が1996年に批准(ひじゅん)していることだ。この国際条約によれば、領海は領土の基線から最大12海里(約22キロ)と定められている。仮に中国の主張通り、南沙諸島(なんさしょとう)や西沙諸島(せいさしょとう)が中国領だとしても、南シナ海全部が中国の領海とはならないんだ。

 中国は、国連海洋法条約が認める排他的経済水域200海里(約370キロ)を確保する一方、12海里の領海は守っていない。

 この中国の態度に対し、国連海洋法条約にもとづくオランダ・ハーグの仲裁裁判所は2016年、中国の南シナ海領有は根拠がないと否定した。ところが中国は、「こんなものは紙くずに過ぎない」と言って無視し続けている。判決には強制力がないからだ。

Q 自分は国連海洋法条約を批准しておきながら、裁判所の言うことは聞かない。こんな無法がまかり通るんですか。

A 怒りたく(おこりたく)なるだろう。さらに最近、中国は周辺国の神経を逆なでする(さかなでする)行動に出たんだ。今年8月28日に中国の自然資源省が公表した2023年版の地図だ。周辺国の主張を無視する形で、南シナ海の大半を自国の領海としただけでなく、インドとの係争地帯(けいそうちたい)まで中国領と表記したことでインドも激怒した。

 それだけではない。今回の地図で、これまで9段だった線が10段に増えている。

Q どういうこと?

A 台湾の東側の海に新たに1本線を書き足したんだ。これまでの地図の破線では、台湾が中国領だということが明確になっていなかったということらしい。こんな破線が問題になっているところだから、「バービー」の世界地図のアジアに書かれた破線は中国の九段線のことだろうというのがベトナムの主張だ。ベトナムは上映を禁止し、フィリピンは地図をぼかすことを条件に上映を認めた。

Q 地図ひとつでもおろそかにできないっすね。地図にも各国の主張が現れるんだ。

十段線.png