池上彰のそこからですか!? 第578回 2023/07/14
「安全」でも安心できない?
日本には「安全・安心」という不思議な用語があります。東京オリンピック開催のときに「安全・安心な大会を開きます」などと使われました。でも考えてみてください。安全が確認できれば安心ではありませんか。それが、わざわざ「安全・安心」とつなげた言葉になるのは、どこかに「安全と言われただけでは安心できない」という気持ちがあるからではありませんか。
今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故で出ている「処理水(しょりすい)」の海洋放出(かいようほうしゅつ)では、まさにそんな状態があるのではないでしょうか。
東京電力の計画によれば、原発事故で出ている汚染水(おせんすい)からトリチウム以外の放射性物質を基準値を下回るまで浄化した(じょうかした)「ALPS処理水」を、沖合約1キロの海底トンネルの先端から放出することになっています。海岸にいきなり放出するのではなく、1キロ離れた場所まで送って出すというわけです。この海底の深さは約12メートルです。
その際、放出前に大量の海水で薄めて、トリチウム(tritium)の濃度(のうど)を1リットル当たり1500ベクレル未満にします。これは、国の排出基準である6万ベクレルの40分の1未満ということになります。さらにWHO(世界保健機関)が定めた飲料水の基準が1万ベクレルなので、その約7分の1という水準です。
これなら飲んでも大丈夫というわけですが、そんなことを言うと、きっと「じゃあ飲んでみろ」という声が飛んできそうですね。
これだけ薄めた処理水ですが、1キロ先の海底から放出すると、海水と混じって、さらに薄まるというわけです。
こういう説明を受けると、「なんだか安全なのかな」という気になる一方で、そもそも「ベクレル」という放射線の単位がピンと来ないと、「安心できない」という気持ちになる人が多いことでしょう。
さらに問題は、そもそもトリチウムとはなんぞや、ということでしょう。ほかの放射性物質は除去(じょきょ)できるのに、なぜトリチウムは除去できないのか、という疑問もあります。そうなると、当コラムの出番ですね。
トリチウムとは「三重水素(さんじゅうすいそ)」のことです。
こんな説明を受けても文系の読者にはわかりませんよね。では、基礎基本から。まず水の元素記号(げんそきごう)はH2Oですね。Hは水素、Oは酸素ですから、水素の原子が2つと酸素の原子が1つ結びついたものが水です。
原子というと、原子核(げんしかく)の周りを電子(でんし)が回っているという構造(こうぞう)を思い出してください。このうち水素の原子は、陽子(ようし)1個からなる原子核と電子1個から成り立っています。非常にシンプルなのです。
これだけなら問題ないのですが、たまに水素の原子核の中に中性子が飛び込んでくることがあります。その結果、陽子1個と中性子2個からなる原子核が誕生することがあります。これが「三重水素」つまりトリチウムです。これは本来の水素(すいそ)の原子とは異なるので、とても不安定。放射線を出してしまうのです。
中国もトリチウムを出している
そもそもトリチウムも水素ですから、酸素の原子と結びついて水になります。放射線を出す水です。ところが水に変わりはありませんから、放射性物質(ぶっしつ)取り除く(とりのぞく)機械(略称ALPS)を使っても、トリチウムを取り出すことができないのです。この状態を例えると、井戸水と水道水が混じったところから水道水だけ取り出すようなものだといいます。これは同じ水ですから分離が極めて難しいのです。
トリチウムから出る放射線はわずかで、水と一緒に体内に入っても、すぐに汗や尿として排出されるので心配いらないというのが政府の説明です。これにはIAEA(国際原子力機関)のグロッシ事務局長が来日し、「処理水は安全基準を満たしている」とお墨付き(すみつき)を出しました。
しかしこれで安全と言っても、多くの人は「安心」できません。とりわけ福島の漁民(ぎょみん)たちは風評被害(ふうひょうひがい)を心配します。「福島県沖で処理水放出」というニュースを聞いた一般市民が、福島県で水揚げされた魚を敬遠するのではないか、という心配です。
さらに国際問題にもなります。この際、それぞれの国と日本の関係によって、処理水の評価が変わるのです。たとえば韓国の尹大統領は、「IAEAの評価を尊重する」と言っていて、放出を容認しています。日本との関係強化を進めている尹大統領ならではの発言です。
これが、前任者の文在寅(ムン・ジェイン)大統領だったら反対していたのではないでしょうか。事実、文政権のときに与党で、現在野党に転落した「共に民主党」の党員たちは「汚染水の放出反対」を叫んでいます。
こうなると、韓国の野党の人たちに知ってもらいたいことがあります。それは、韓国の原発もトリチウムを出していることです。海洋放出に伴うトリチウムの放出量は月城原発(ウォルソンげんしりょくはつでんしょ)が年間約71兆ベクレル(21年)に達しています。今回の日本の放出予定量は年間で22兆ベクレルですから、韓国の方が遥かに多いですね。
さらに問題なのは中国です。中国外務省の報道官は、「太平洋は日本が核汚染水を垂れ流す(たれながす)下水道ではない」という強烈な言葉を使って放出に反対しています。
でも、中国の寧徳原発は年間約102兆ベクレル(21年)ものトリチウムを放出しています。秦山第三原発に至っては、年間約143兆ベクレル(20年)です。さらに陽江原発は112兆ベクレル(21年)です。こうなると、東シナ海は中国の下水道ではないぞとでも言いたくなります。
この問題は、日本との関係がいい国は容認し、関係がよくない国は反対するという非科学的対応になっているのです。
日本がIAEAの基準を盾に「安全だ」と主張しても、「安心できない」人はいます。こういう人に、どう接すればいいのか。これも岸田政権にとって頭の痛い問題です。