池上彰のそこからですか!? 第571回 2023/05/26

思わぬ激戦のトルコ大統領選挙

 このところ「地政学」という言葉をしばしば聞きます。国際情勢を考える上でバズって(この「バズる」と言う言葉、ネットで流行っているので、どこかで見たことや聞いたことがあるというも人もいると思います。)いる言葉とでもいいましょうか。そんな地政学の視点で見ると、G7サミットの後は、中東トルコの大統領選挙が世界の注目を集めることになります。

 いったんは今月14日に選挙が行われましたが、過半数を獲得する候補がなく、28日に決選投票が行われることになったからです。

 世界地図で見ると、トルコはアジアとヨーロッパの結節点(けっせつてん)に位置しています。トルコのボスポラス海峡を挟み、東がアジア、西がヨーロッパと分類されています。このトルコが一躍注目されたのが、去年のロシアによるウクライナ侵攻です。

 ウクライナは「欧州の穀倉(こくそう)」と呼ばれるほど豊かな大地を持ち、大量の小麦やトウモロコシが中東やアフリカに輸出されてきました。

 しかし、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻で、一時輸出(ゆしゅつ)ができなくなり、中東やアフリカが食料危機に陥るのではないかと心配されました。

 このときトルコが対策に乗り出しました。ウクライナから輸出される食料を積んだ貨物船(かもつせん)は、ボスポラス海峡を通るからです。トルコがロシアとウクライナの間を仲介し、食料輸出は再開できました。改めてトルコの存在感が高まったのです。

 トルコは、かつては旧ソ連と対立していたので、中東の国ながらNATO(北大西洋条約機構)に加盟しています。ソ連がロシアになっても対立は続いていました。

 ところが2016年、軍によるクーデター未遂事件が起きると、エルドアン大統領は国内で自身に反対する勢力の大弾圧(だいだんあつ)に転じます。公務員15万人以上を追放したり停職に追い込んだりした上に、政権に批判的な新聞を廃刊にさせたり、国有化(こくゆうか)したり。テレビ各局(かっきょく)で多くのジャーナリストを解雇させ、政権寄りの人間ばかりにしたりしました。

 実は私は2014年にイスタンブールで開かれた日本とトルコのジャーナリストによる国際会議に参加したのですが、このときトルコ側から出席した新聞記者やテレビ局のディレクターたちは、2016年以降、多くが逮捕されたり会社を解雇されたりしてしまいました。トルコを去ったテレビ局の人間もいます。

 こうしたエルドアン政権の姿勢に欧米各国(かくこく)が批判を強めると、エルドアン政権はロシアに接近。NATO加盟国にも関わらずロシア製の地対空ミサイルを購入します。

 この結果、ロシアがウクライナに侵攻してNATO各国がウクライナ支援に尽力している情勢下で、「NATO加盟国ながらロシアと親しい」という絶妙な位置に立つことになったのです。これが、今回注目されている理由です。

 さらにもう一つヨーロッパ各国が注目しているのは、トルコにいる360万人ものシリア難民がどうなるかということです。

現職か「トルコのガンジー」か

 というのもシリアで内戦が始まると、多数の難民がヨーロッパに押し寄せ、2015年から16年には「欧州難民危機」と称される事態となりました。これに困ったEU諸国は、難民の多くがトルコを経由していることに注目し、トルコに資金を援助して、シリア難民をトルコに留めておくように頼んだのです。

 今回の大統領選挙の結果次第では、トルコがシリア難民の受け入れを中止するかも知れないので、ヨーロッパ各国が心配しているのです。

 今回の選挙は、現職のエルドアン大統領に、野党6党の統一候補のクルチダルオール氏が挑む(いどむ)構図になっています。

 もともとトルコの前身はオスマン帝国(オスマン・トルコとも)。イスラム国家でしたが、第一次世界大戦で敗北すると、政教分離の世俗国家(せぞくこっか)トルコ共和国として再出発しました。政教分離は徹底していて、女性のイスラム教徒のシンボルともなっているスカーフを公(おおやけ)の場で着用してはいけないという厳しいルールになっていました。

 オスマン帝国時代のモスクだった「アヤソフィア」は博物館に位置づけられ、イスラム教徒でなくても誰でも観光できる場になっていました。それがトルコを国際的な観光地として魅力あるものにしていました。

 ところがエルドアン大統領はトルコのイスラム化を進めています。大統領の妻は公の場所にスカーフを着用して出席しています。アヤソフィアはモスクに戻し、イスラム教徒以外の観光客の立ち入りは礼拝時間以外のみになりました。

 これが、都市部の若者には不人気ですが、地方の保守的なイスラム教徒には支持され、エルドアン大統領の岩盤(がんばん)支持層となっていました。

 しかしコロナ禍以降、世界的な物価上昇・インフレがトルコでも進んでいます。

 このため中央銀行総裁がインフレを抑えるために金利を引き上げようとすると、エルドアン大統領は「インフレ対策には金利を引き下げる必要がある」という珍説を披露。金利を引き上げようとした総裁を相次いでクビにしてしまいました。

 その結果、金利を下げたことで通貨のリラは一段と下落。通貨安のために輸入品の価格は高騰。インフレが加速してしまったのです。

 こうした状況に危機意識を高めた野党各党は、穏健で顔がインドのガンジーに似ていることから「トルコのガンジー」と呼ばれるクルチダルオール氏を押し立てました。

 結果は、両候補とも得票率が5割に達せず、決選投票になったのです。クルチダルオール氏は、エルドアン大統領との違いを出すため、「2年以内にシリア難民を帰還させる」を公約にしています。しかし、シリアでの内戦は続いていますから、トルコを追い出された難民は、ヨーロッパを目指す可能性が高いのです。

 強権的なエルドアン大統領は不愉快だが難民が押し寄せるのも困る。これがヨーロッパ各国の本音です。


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