夜ふけのなわとび 第1819回 林 真理子 2023/11/23

とにかく眠る

 幕が切って落とされたように、冬がやってきた。ついこのあいだまで夏ものを着ていたのに、最近はコートを羽織る。日本から秋が無くなるというのは本当かもしれない。

 あのぴんと張りつめたような空気、高く澄んだ空、そして豊かな秋の味覚といったものが味わえないというのはとても残念なことだ。いや、残念というより怖ろしいことかもしれない。

 今朝は久しぶりに厚手のスーツを取り出してみた。引き出しを開けインナーを選ぶ。薄い黒のニットがあった。それを着て胸のところに小さなゴミがついているのを見つけた。はらおうとして気づいた。虫が喰っている。

「ひいー!」

 ふんぱつして買った、カシミアのブランド品である。どうしてムシというのは、高価なものから狙うのだろうか。ちゃんと防虫剤を入れておいたのに本当にひどい。仕方なく別のものにしようとしたのであるが、薄手の黒が見つからない。あちこちひっかきまわしているうちに、次第に気がたってくる。

 やがて9時になり、LINEが入ってきてイヤなことを知らされる。シリアルを食べようとして牛乳が切れていることに気づいた。

 最悪の朝のスタートだ。

 それでも心を落ちつけ、化粧を始める私である。今夜は久しぶりに会食が入っているのだ。

 仲間やいろいろな人が、食事に誘ってくれるのであるが、最近はドタキャンばかり。本当にいつなんどき、どんなことが起こるかわからないからだ。今日は親しい出版社のえらい人と担当者と一緒に、和食のお店に行くことになっている。

 その和食屋さんは、カウンターと小さな個室というまあふつうの店なのであるが、特筆すべきことは、板前兼オーナーが女性だということ。しかも彼女は山梨出身なのだ。

「ハヤシさんがきっと気に入ると思って」

 と、今日会う人に連れてきてもらったのはもう4年ぐらい前になるだろうか。ここは鳥モツが出る。山梨のB級グルメとしてあまりにも有名な一品だ。鳥のモツを甘辛く煮つけてある。ビールにも日本酒にも合って、やみつきになるおいしさだ。途中でフカヒレの煮込みが出るが、熱々で運ばれてきてジュジュッとかすかな音をたてる。

 板前の女性も若いが、きびきびと料理を運ぶ女性も若い。この店は女性2人のチームワークでやっているのだ。店の名前は、オーナーの苗字をとってHという、これがまた山梨に特に多い苗字なのである。お節介な私は、この店を山梨出身の人に教えずにはいられない。

 某出版社の社長(今は会長)には、同郷のよしみでいろいろとお世話になっている。この方の苗字はやはりHという。

「いい店がありますから」

 とお誘いした時、

「Hと言って社長と同じ苗字ですから、愛人にやらせている店、ということにしたらどうですか」

 と冗談を口にしたのであるが、大層真面目な方なのでびっくりした顔をされた。反対に人を連れてくるたびに、

「実は娘にやらせてまして」

 と言って煙にまくらしい。

 コロナの真最中、ちょっと心配になって顔を出したところ、

「“お父さん”が助けてくれてますから」

 ということ。しょっちゅう何人かで来てくれたり、テイクアウトしてくれるそうだ。私が結んだ親子の絆、いい話ではないか。

『メンタルが強くなる』  さて今夜のこと、久しぶりに出版社の人と食事をしてとても楽しかった。業界のいろいろな噂話になる。

「このあいだ25年ぶりに、札幌の渡辺淳一文学館に行ってきましたよ」

 大学の校友会に出席するためホテルに泊まったところ、そこから文学館まで目とハナの先だったのである。

「私とのツーショットが多くてびっくり」

 なぜか私が着物姿で、先生にお酌をしているものもあった。たぶん先生と京都に遊びに行った時のものであろう。

「あの頃は本当に楽しかったですよねー」

 3人ともバブルを経験しているので、昔話にもつい熱が入る。

「小説を連載していると、担当編集者が必ずといっていいくらい言ってくる。ハヤシさんどっか海外行きましょうよって」

 そしてストーリイに関係なく、恋人2人はヨーロッパやアメリカに行くことになっているのだ。国内では京都ははずせない。

「そういえば、あなたともタイへ行ったよね。なんか編集者3人もついてきちゃって、みんなオリエンタルホテルにも泊まったよね」

「夜、飲みに行ったところでボラれて、えらい騒ぎになりました」

 などと話は尽きないのであるが、ご飯をご馳走になりながら、のんびりノスタルジアにふけったりするのは出版社のマナーに反する。

「ところでハヤシさん、そろそろ小説の連載しないとまずいですよ」

「そうだよ、ハヤシさん、書き方忘れちゃうよ。不定期でいいから何か書いてみない」

 と言われても、今、私はそれどころではない。毎日何が起こるかわからないという波乱の日々なのだ。

「だけど人間、眠らなきゃ絶対にダメ。私はどんなにイヤなことがあっても、毎晩ぐっすり眠れますよ。食欲もご覧のとおりあります。人間、よく眠って食べていれば、たいていのことは乗り切れますよ。とにかく私は眠るの。友だちから分けてもらったナントカ菌のジュース飲んで、ヤクルト1000をキュッ。まわりの人たちからは、ハガネのメンタルと言われてます」

「それですよ、それ!」

 編集者は叫んだ。

「新書出しましょうよ。『メンタルが強くなる』、これでキマリ」

 鳥モツが急に喉を通らなくなった。