夜ふけのなわとび 第1823回 林 真理子 2023/12/22

謦咳に接する

 先週号の「週刊文春」の草笛光子(くさぶえ みつこ、1933年10月22日 -)さんのエッセイで、懐かしい名前があった。「岩谷時子さん」と。

 その何ぺージか後で宮藤官九郎(くどう かんくろう、1970年7月19日[1]- )さんが、山田太一((やまだ たいち、1934年6月6日- 2023年11月29日)さんを悼んで(いたんで)いる。

 このお二人に私はおめにかかったことがあるのだ。岩谷さんは、車椅子に乗った晩年に。こういうのを「謦咳(けいがい)に接する」というのではなかろうか。

 この言葉をググってみると、

「尊敬する人の話を身近に聞く。お目にかかる。咳もありがたいということ」

 とあるが、私の感覚からすると、短い時間という気がする。私の場合、

「瀬戸内寂聴(せとうち じゃくちょう、1922年〈大正11年〉5月15日 - 2021年〈令和3年〉11月9日)先生の謦咳に接する」

 とは言わない。

「瀬戸内先生に可愛がっていただいた」

 しかし山崎豊子(やまさき とよこ、1924年(大正13年)1月2日 - 2013年(平成25年)9月29日)先生は違う。文学賞の授賞式で一度おめにかかり、ご挨拶をした。2分にも満たない時間。が、皆に自慢出来る経験。これを「謦咳に接する」と呼びたい。

 松本清張先生もそう。文藝春秋の忘年会パーティーで、珍しいものを見るように、

「君がハヤシマリコか、ふうーん」

 とおっしゃった。星新一先生は銀座の文壇バーで。その時一緒にいらしたのが、小松左京先生であった。

 私はデビューが早かったので、こういう伝説の方々に間に合ったのだ。

 思い出すとどんどん出てくる。そう、あの李香蘭さんにも。劇団四季のミュージカル『李香蘭』の初演の日、トイレの列に並んでいたら、向こうから李香蘭こと、山口淑子さんが歩いていらっしゃるではないか。私は思わず、

「あ、今日はおめでとうございます」

 と声をかけた。するとあちらも私のことをご存知らしく、

「あなたもこのたびはおめでとう」

 とおっしゃってくれた。実は私、結婚をしたばかりだったのだ。

 そうそう、先週号に、網野善彦さんのことも出ていた(業界が違うので“さん”づけで)。あの方にも一度だけおめにかかったことが。山梨県がらみの何かの選考会であったと記憶している。網野さんは、私が知っている中沢新一さんの義理の叔父さんなのだ。

「私、新一さんと山梨で近所で……」

 と近づいていったら、

「ああ、そうなんですね」

 とにっこりされた。

 空港の食堂でひとりお食事を召し上がっていたのが梅原猛さん。梅棹忠夫さんにも空港で偶然おめにかかり、ご挨拶をした。

 漫画家だと巨匠がずらずら。これは対談となるが、やなせたかしさん、さいとう・たかをさん、手塚治虫さん。手塚先生には色紙を書いていただき、これは私の宝物となった。

 などとあげていくと、ミーハーの自慢話ととられそうであるが、私にとっては偉大な方々と、ちらっとでも会話を交わせたことは本当にすごいことだったのである。もはや歴史に刻まれる方々と、同じ空気を吸っていたと思うとやはり興奮する。 何が代表作なの?

 そういえば亡くなった私の父は、忠犬ハチ公の実物を見たと自慢していた。銅像をつくる時、当時勤めていた銀行がかかわっていた。そのため除幕式の手伝いをしたそうだ。母の方は、昔住んでいた新宿区の落合のあたりで、林芙美子さんをよく見かけたそうである。

 五木寛之先生がずっと以前、林芙美子に触れ、

「今の林真理子さんのような人気作家でした」

 と書いてくださったことがある。たぶん同じ“林”なのでそう連想なさっただけだと思うが、母はよほど嬉しかったのであろう。この箇所にマーカーを引き、本を死ぬまで手元に置いていた。

 この五木先生であるが、私が、

「お会いしたことがある」

 というと、たいていの人がえー! と驚く。なぜなら若い人たちにとって、五木先生は教科書に載るようなすごい方で、アンタなんかと格が違うわよね、と思っているのではないかと推測する。

「このあいだまで、ある文学賞の選考会をご一緒していた」

 というと、さらにえー!と言われる。ちょっと悲しい。

 2年前、ある地方のイベントに出た。新幹線の駅までは車で1時間近くかかる。ゆっくり居眠りしたかったのであるが、運転手さんがものすごく話好き、しかも読書が趣味という。時代小説のファンで、私のことは知らない。

「いつもブックオフで、この人の本買ってくるんだ、ほら」

 文庫本を差し出す。

「お客さん、この人のこと知ってる?」

「いいえ、存じ上げません」

「えー!! ベストセラー作家なんだよ。何十万部もシリーズ売れてるよ」

「そうですか。時代小説の新人はうとくて……」

「ふうーん……」

 ものすごく不満そう。

「お客さん、作家なんでしょ」

「はい、そうです」

「あのさ、浅田次郎に会ったことある?」

「ええ、いろんなところでお会いしますよ」

「えー、本当!?」

 どうしてあんな有名作家と、アンタが知り合いなんだと言いたげな口調。その後、

「作家ってさ、自分で作家って名乗れば作家になるらしいね。ハハハ」

 とまで言われ、かなりむっとした。

「それでお客さん、どんなもの書いてるの、何が代表作なの?」

 ここまでくると、温厚で知られる私でも、イヤ味のひとつも言いたくなる。

「まあ、申し上げても、ご興味ない方にはわからないと思いますけれどもね」

「だから言ってくれればブックオフで探してみるよ」

「まあ、私の本は読んでも面白くないと思いますので」

 ここで彼もやっと黙ってくれたのである。

 今後いくら頑張っても、彼が私の名前を憶えてくれて、「謦咳に接した」と思ってくれる日は来ないに違いない。