夜ふけのなわとび 第1810回 林 真理子 2023/09/15
北千住
私の友人のスポーツトレーナー、A子さんは、マツコ・デラックスの『月曜から夜ふかし』に、いつも怒っている。足立区の描き方がいつもひどいと言うのだ。
「竹の塚の、前歯のないおじいさんとか、路上で缶ビール飲んでるおじさんばっかりテレビに撮ってる。あれなら、みんな足立区はあんな人ばかりだと思いますよ」
彼女に言わせると、足立区の北千住(きたせんじゅ)のあたりは、おしゃれなお店が多いうえに、どこも安くておいしい。本当にいい街だそうだ。
特に彼女の住んでいるところは、
「足立区の田園調布(でんえんちょうふ)」
と呼ばれているという。
公園もあって住みやすい。小学校からの同級生が近所にいて、しょっちゅう皆と飲み会をしている。その子どもたちが、同じ学校に通うことが多く、
「もしイジメなんかがあったら、タダじゃおかない」
という雰囲気もあり、足立キッズもみんな仲よし。
「とにかく私は、一生ここに住んで、他に行く気は全くありません」
ということである。
さて、話は全く変わるようであるが、私の8年前に出版された小説に『中島ハルコの恋愛相談室』というのがある。主人公は図々しくてケチで、何でもズケズケ言うけれど、その率直さで皆からアドバイスを求められる、という設定だ。
連載中から非常に評判がよく、皆から面白い、面白い、と言われた。が、そのわりにはあまり売れず、ほぼ半年間プロモーションに費やしたものの、重版も1回したかしないか。
まあ、こんなことはよくあることなので、仕方ない、と気持ちを切り替え、別の連載を書き始める私。
小説は3年たつと文庫本になる。ここで再び挑戦するわけであるが、最近は文庫本が驚異的に売れなくなっている。編集者に言わせると、買う人は単行本で買う。が、文庫になるまで、と待つ人はいない。世の中から文庫本を読むという習慣がなくなったのだ。
そこで私の担当編集者は、一計(いっけい)を案じた。皆の反対を押し切り、タイトルを変えたのだ。
「ハヤシさん、『最高のオバハン 中島ハルコの恋愛相談室』と変えますが、いいですか」
「いいんじゃないの」
そうしたら、文庫はそこそこ売り上げたうえに、ドラマ化の話が来たのだ。しかも主演は大地真央(だいち まお)さんである。あの美しくエレガントな大女優に、「オバハン」は似合わないだろう、と思った。しかし大地さんは、自分勝手でチャーミングなオバハンを見事つくり上げたのである。それどころか、この役をとても気に入ってくださり、第2シリーズまでつくられたのだ。
そして今回は舞台化され、その劇場が北千住なのである(やっと結びついた)。
見くびってた……
北千住に行くのは生まれて初めて、とは言わないが、2度めか3度めか。やはり以前この劇場に来たような気がするが、場所もまるで憶えていない。
調べてみると、代々木上原から北千住までは千代田線で35分ある。雑誌を持って乗り込んだ。土曜日ということもあり、すぐに座ることが出来た。乗り換えなしでラクチン。
北千住の駅に着く。思っていたよりずっと大きな駅だ。劇場は駅前のビルの中にある。入り口で友人2人、文藝春秋の編集者たちと待ち合わせた。とても立派な劇場である。
「有楽町や新橋じゃなくて、どうして北千住?」
などと思った私が恥ずかしい。今日は初日で満席だ。いや、9日間、ほぼ満席らしい。
お芝居はミステリー仕立てで、それに宝塚ミュージカルのテイストが入る。何より大地さんの美しいこと。とっかえひっかえ着替えてくださるのだが、イブニング姿で階段を降りてくるシーンは、あまりの美女ぶりに観客からため息が漏れた。
最後はスタンディングオベーション。みんな大喜びである。
「楽しかったね! さて、何を食べようか」
女3人、全く知らない街。私はグーグルであらかじめ調べておいた。駅から4分のところにおいしそうな魚料理の店がある。日本酒もいっぱい揃えてあるそうだ。
「もう予約してあるよ」
「おいしそうな店だね」
「もしハズレでも、知らない街でのことだから楽しいじゃん」
はたしてそのお店は、魚がどれも新鮮でとてもおいしかった。が、やや高いかも……と思う私は北千住を見くびってるのかも。
「私ね、こんなバーを見つけたよ」
友だちがスマホの画面を見せる。
「ここから歩いて5分だって」
確かに素敵な店であった。バーテンダーは2人。蝶ネクタイをびしっと締め、カクテルをつくってくれる。店に流れる曲は、ワーグナー。
「今日はオペラデイです」
大満足。ほろ酔い気分で駅まで歩いた。ずっと飲み屋街が続く。週末とあって、どこも若い人でいっぱいだ。それに前歯のないおじいさんや、道路で飲んでいるおじさんなんか一人もいない。流行の格好をしたカップルやグループが、通りから見える店で飲んでいる。
「本当に楽しかったね。いいとこだね。北千住、またすぐに来ようね!」
と約束して、駅前で別れた。夜も遅かったので、深く考えずにタクシーに乗り込む。
「お客さん、何しに北千住来たの」
「お芝居観にですよ」
「へえー、北千住でお芝居?」
「運転手さん、いい劇場あるじゃないですか」
「へえー、どんなお芝居やってるの?」
会話が続く。が、いつまでもいつまでも高速道路も続く。そして家に着いた時、料金の高さにのけぞる私。
北千住、やはりめったには行けません。