夜ふけのなわとび 第1803回 林 真理子 2023/07/21

大人の恋と人間ドック

 暑い。

 毎日ものすごく暑い。

 ちょっと外を歩いたりすると、陽ざしの強さにクラクラ(めまいがするさま)してしまう。

 私はウィークデイは、日大本部に勤務している。ここは当然冷房がきいているのであるが、終わってから夜の街に出かけると大変だ。タクシーで帰ろうとしてもなかなかつかまらない。

 最近のタクシー乗車(じょうしゃ)の困難さは、バブルの時にそっくりと私は断言する。空車(くうしゃ)のタクシーが走っていないのだ。赤く光っている表示に近寄っていくと「迎車(げいしゃ)」とある。最近はアプリで呼ぶ客が多くて、繁華街でもつかまらない。コロナでたくさんの運転手さんがやめたことも大きいようだ。

 このあいだは昼の表参道(おもてさんどう)で、20分待ったけれども1台も来なかった。こんなことがあるだろうか。

 しかし、東京はタクシーが来なくても、地下鉄やJR、私鉄がはりめぐらされている。タクシーを諦めて電車に乗ればいいだけの話だ。

 本当に困っているのは田舎ではなかろうか。久しぶりにお墓まいりに行こうと思い立ち、故郷の駅に降りた。しかし1台たりとも停まっていないのだ。以前は十数台が客待ちをしていたのに。

 仕方なく駅前のイトコの家に行き、そこから知り合いのタクシーを呼んでもらった。

 運転手さんは証言する。

「コロナで、タクシー会社がふたつ潰れただよ」

 人口3万ぐらいの町で、タクシー会社なんか3つぐらいしかなかったはずなのに。

「運転手も年寄りばっかで、もうなり手がいないズラ」

 昔、両親が生きていた頃、それこそワンメーターの距離でも平気で呼んでいたが、あんなことはもうはるか昔のことらしい。

 京都に住む友人も言う。

「いま京都駅に、外国人観光客のものすごい行列が出来ているよ」

 本当に乗れなくて困っているらしい。コロナでタクシーが激減したところ、インバウンドが戻り、激増したのだ。同じ話を軽井沢(かるいざわ)からも。

「駅のタクシー乗場に、長い長い行列が出来ていたよ。本当に乗れないよ」

 どちらもこの夏、行こうと計画しているところだ。いったいどうしたらいいのだろうか。京都は駅前のホテルに泊まり、軽井沢は歩くしかないと決めた。

 さて、暑さもタクシー問題も憂鬱(ゆううつ)であるが、もうひとつイヤなことが。それは人間ドックが近づいていることだ。

 このあいだ平松洋子(ひらまつ ようこ)さんもお書きになっていた、内視鏡検査(ないしきょうけんさつ)を今回もやる。昔はこれを嫌悪(けんお)するあまり、何年も人間ドックを拒否(きょひ)していた。

 が、数年前にとてもラクチン((もと、幼児語)楽なこと。楽で気持がよいこと)なところを見つけた。眠っている間に、上からも下からもみーんなやってくれるのである。問題はその前で胃と腸を空っぽにしなくてはならないということだ。

 4日前から軽い下剤(げざい)を飲み、前日はうんときついものに変える。そして3日前から食事制限がある。消化の悪いものは避けなければならないのだ。

 説明書によると、ソバ、コンニャク、キノコ、玄米、野菜、果物、海藻は食べないようにとある。ご飯、パン、肉、魚はいくらでも食べていい。

 そうすると悩みは始まる。

「冷ややっこはいいんだろうか」

 原材料の大豆は穀物だけど、これはオッケー。

「毎朝のシリアルは?」

 レーズンをとり除けばいいかもしれない。

ずっと心配だった

 そのうち私は大変なことに気づいた。人間ドックの前日に、友人と食事の約束をしていたのである。

 いつも会う東京の友人なら延期してもらえばいいのであるが、彼女は地方に住んでいて、しかも今回は特別の食事なのである。

 飛行機で行くぐらいの地方都市に住んでいるA子さんは、地元の放送局で営業をしている。私とはもう30年近いつき合いになるだろうか。彼女の会社が主催する講演会に、出演したのがきっかけだ。それ以来、毎年果物を送ってくれる。この果物の名を言うと、すぐに地域が限定されるので言わないが、とにかく律儀で親切な女性だ。

 学生時代、バレーボールの選手をしていた健康的な美人で50代。結婚はしていなかった。

 彼女はある日、1枚のポスターを見る。それは地元の財界の社長たちで結成したバンドだ。興味を持った彼女が聴きに行くと、サックスを吹くイケオジがいた。地元の銀行の頭取だった。その人は奥さんを病気で亡くしていた。

 4年前、私が別の仕事でその街に行った時、彼女は食事の席に彼を連れてきていた。恋人と聞かされたのはその後のことだ。しかしその街では彼は有名人。デイトは他の県でしなくてはならない。

 他の人には見せられないので、よく2人の写真を送ってくれた。温泉やゴルフ場で本当に楽しそう。コロナの最中は、おうちで彼が料理をつくり、2人でワインを飲む写真もいっぱい。

 籍を入れたのは昨年のことだ。

「1人で生きていくかとずっと心配だった」

 と彼女のお母さんはうれし泣きしたそうだ。

「仕事で東京に行きます。主人もハヤシさんと飲みたいと一緒に上京します」

 そんな彼女との食事を、どうしてキャンセル出来るだろう。すぐにラインしたら、1日早く来てくれることに。場所は予定どおり広尾(ひろお、渋谷)のイタリアンにした。秘書は店に連絡を入れた。

「それからハヤシは食べられないものが。コンニャク、キノコ、玄米、海藻」

 イタリアンレストランに、そう電話をした彼女を想像するととてもおかしい。