夜ふけのなわとび 第1802回 林 真理子 2023/07/14
パリはやっぱり
ルーマニアへ行くといったら、まわりの反応(はんのう)は全く同じであった。
「チャウシェスク」
「コマネチ」
この2つの単語しか知らない。それほど遠い国ということだ。
今回行ってわかったことがある。この国の人たちはとても英語がうまいということ。公用語はルーマニア語にもかかわらず、みんなふつうに英語を喋っている。
隈研吾(くま けんご)さんと公開対談をしたのであるが、私がちゃんと英語を話せればよかったのに、とつくづく思う。そうすれば限られた時間、めいっぱい日本文化について話すことが出来た。ルーマニア語の通訳がついてくれたが、こうすると時間は2倍かかってしまう。
そしてもうひとつわかったことは、ルーマニアは“飛び地”のようなラテンの国ということ。私が会った人たちは、みんなとても人懐っこくて(ひとなつっこくて)明るい。美人が多いことにも驚く。
「ところで食べものはどうなの」
と多くの友人に聞かれたが、残念ながらちゃんとしたルーマニア料理はほとんど食べていないかも。スケジュールがびっしりなので、街のレストランで、パスタやバーガーを頬ばった。
一度だけ、演劇祭(えんげきさい)の日本人ボランティアと一緒に、いわゆる観光レストランに入った。私はこういう時、あれこれメニューを頼むのだが、最初のスープでお腹がいっぱいになってしまった。チョルバと呼ばれるこってりとしたスープである。ちょっと酸っぱいタイプのパンもおいしい。テーブルには、ハムやチーズのオードブル(前菜)盛り合わせ、ハムとチーズたっぷりのサラダ(オーダーの仕方が悪かったかも)、トウモロコシの粉を練ったのを添えた(そえた)豚肉の煮込みが、たっぷりと残ってしまった。
ボランティアの女性が、持って帰って、明日の朝ごはんにするという。
「これテイクアウト出来ますか」
と頼んだところ、快くオッケー。すぐに包んでくれた。それにしても信じられない安さだ。3人で1本ワインも頼んだのに、料金は8000円ぐらいであった。
コロナ以降、久しぶりにヨーロッパに来てわかったことは、
「日本って、なんて貧乏な国になったんだろう」
ということ。
帰り道、トランジットで寄ったミュンヘン空港で、ビール2杯とサラダ、SUSHI盛り合わせ(M)を頼んだところ、チップも入れて9000円。
「シビウの3人分のディナーよりも高いじゃん!」
何を食べても買っても安かったルーマニアが懐かしい。しかもシビウの演劇祭の関係者という、IDカードをぶらさげていると、みんなが親切にしてくれる。街をあげての大イベントなのだ。
空港に行く前に寄ったカフェでは、知らない年配の女性が代金を払ってくれた。
「わざわざ日本から来たんだから」
ということらしい。
クマ・ケンゴのすごさ
皆さんありがとう、と別れを告げてシビウ空港へ。ここはびっくりするくらい小さな空港。申しわけ程度にひとつだけ売店(ばいてん)がある。お土産をと入ったところ、ドラキュラのスノードームとチョコレートが売られていた。そうだ、ルーマニアはドラキュラ(Dracula)の国なんだ。
この空港からミュンヘンに飛び、ミュンヘンからパリへ。1泊だけでもパリに寄り、日曜日に日本に帰ろうということになったのだ。
「パリではうちの事務所を見てよ」
とクマさん。なんと世界中、北京、上海、東京、パリと4ヶ所あるそうだ。ホテルは事務所に近いところにクマさんがとってくれた。
「私、よくフォーシーズンズに泊まってたんだけど」
「あんなとこ、今は1泊20万ぐらいするよ。こんな円安の時に無理だよ」
ということで、泊まったのは小さなホテルであった。1泊5万円というなかなかの値段であるが、部屋はダブルベッドぎりぎりの大きさしかない。しかしバスルームは清潔で新しいし、朝ごはんもおいしい。今の私には、このくらいがいいかも。 いつも憎たらしいこと(にくたらし・い)ばかり言っているけれど、本当はとても優しい青年だ 朝、古市憲寿((ふるいち のりとし)君がホテルにやってきた。彼もたまたまパリにいて、今日は夜のフライト前に、ランチを一緒にとることになっているのだ。まずは歩いて、クマさんの事務所へ。私の大きなスーツケースを、石畳の上を一生懸命運んでくれた古市君。ありがとうねー。いつも憎たらしいこと(にくたらし・い)ばかり言っているけれど、本当はとても優しい青年だ。
迎えに来てくれた事務所の人が、通りに面した鉄の扉をカードキイで開ける。すると中庭が広がる。パリによくあるつくりだ。中庭(なかにわ)の先にはいくつか旧い建物があり、その中にクマさんのパリ事務所があった。先にホテルを出たクマさんは、もう打ち合わせに入っていた。なんでもジョージアから来たクライアントだそうだ。
広い事務所には模型があちこちに。
「これはモナコの商業施設だよ」
とても素敵な建物の、完成予想図。
「これは今からパリにつくるホテル」
海外にくると、日本以上にクマ・ケンゴのすごさがわかる。
その後はみんな揃ってランチへ。古市君と仲よしの日本人シェフが、休日だけれども特別に開けてくれていた。なんと星つきの有名店。緻密な美しい料理が次々と出てくる。
古市君は友人を連れてきた。渋谷慶一郎さんといって、私でさえその名前をよく知っている現代音楽家だ。初音ミクのオペラまで手がけている。よーく見ると羽織をジャケット代わりに着ていた。この人が面白いの何のって。ランチは彼のひとり舞台だった。笑いころげる。
「パリがあんまり刺激強すぎて、ルーマニアの思い出がふっとびそう」
ついこんな言葉を漏らしてしまった私である。