夜ふけのなわとび 第1800回 林 真理子 2023/06/30

私の恐怖

 今、この原稿を書いている段階では、乗客の安否はわからない。ただ無事を祈るだけだ。タイタニック号見学ツアーの潜水艇の話である。

タイタニック号見学ツアー潜水艇.png

 行方不明になったことがこれほど騒がれているのは、あの伝説の豪華客船タイタニック号への郷愁(きょうしゅう)もあるだろうし、3500万円払う乗客への興味もあるに違いない。

 が、閉所恐怖症(へいしょきょうふしょう)の私は、ただドキドキしながらニュースを見ている。4000メートルの深海で密室のようなところに閉じ込められる。あたりは真暗、酸素は切れようとしているのだ。これほど怖ろしいことがあるだろうか。

 閉所恐怖症の人たちは案外多くて、今日も仕事先でこの話になった。

「あんな大金を払って、どうしてあんな場所に行くのかしら」

「生存者が壁を必死で叩いているかと思うとつらすぎる」

 そしていきつくところは、MRIの話となった。あの洞穴(ほらあな)のようなところを進んでいくだけで、汗をびっしょりかいてしまうという人もいる。私も語る。

「何年か前、看護師さんが何かあった時の呼び出しボタンをくれなかったの。すぐに終わるからって。その時間の長かったこと。心臓がバクバクしてきたよ」

 恐怖の記憶はぬぐうことは出来ない。私の友人に高所恐怖症(こうしょきょうふしょう)がいて、世界一高いドバイのブルジュ・ハリファに上ったところ、屋上で真青になった。最後は座り込んだほどだ。

 が、ふつう人はそれほど高いところに行かないような気がする。イヤならば、タワーや高層ビルに行かなければいいのだ。しかし閉所はいろいろなところに多数存在している。先ほども述べた人間ドックのMRI、エレベーター、地下の奥まったところのトイレ、うんと安いビジネスホテルのシングル……。エレベーターはなんとか我慢出来るが、最近片隅の三角の防災グッズを見るのはつらい。さまざまなことを想像してしまうからだ。もし地震が起こり、ここに閉じ込められたらどうしよう。知らない人と2人だったら……。いや多人数ならもっと嫌。トイレセットを使わなければならなくなったとしたら……などと考えると息苦しくなってくるほどだ。

 昨日のことである。夫が1泊の旅行に出かけた。これはとても珍しいことだ。私がしょっちゅういろいろなところに出かけているのに比べ、夫はほとんどうちにいるからだ。その日は娘も仕事で留守で、私はひとりぼっちになる。

 そんなことぐらいどうということはないだろうと思うかもしれない。が、私は極度(きょくど)の怖がり(こわがり)なのである。

 うちのセコム(SECOM Co., Ltd.)のセキュリティは完璧だが、問題はそのことではない。この世のものではない何かが、本当に怖くて仕方ない。

 うちの夫は何度かこう言ったのだ。

「1人で寝てると、誰かが廊下を歩いている音がする。ノックの音が聞こえたこともあるよ」

 こともなげに言う。うちの夫は、冗談とか悪戯(イタズラ)とかいうものとは無縁な人間だ。そしてうちのすぐ近くには有名な斎場(さいじょう)がある。

「やめてよ……。本当にやめて……」

「別に何かイヤなことされるわけじゃない。ただ存在しているだけなんだから」

 この会話を忘れることが出来ない私。1人で夜を過ごすことになる日、本気でホテルに泊まろうかとさえ考えた。

 まあ、そんなことも出来ず、何人かで会食。お酒をちょっと飲んで帰ってきた。テレビをつける。お風呂に入る。この時もいろいろな想像をする。酔っぱらって帰って湯船につかり、今もし心臓マヒを起こしたらどうしようか。1階のセコムの緊急ボタンまでかなり遠い。明日の朝、裸で発見されたらかなり恥ずかしいだろうなあ。いや、死んでいたらもうわからないか……。

 そして私はこの後、重大なミスを犯してしまった。小池真理子さんの新刊を読んでしまったのである。

何か聞こえたら……

 短篇集の中に、ホラーが混じっていた。姪(めい、自分の兄弟姉妹の生んだ女子。 ↔甥(おい))と2人暮らしの女性がいる。彼女の妹、つまり姪のお母さんは海の事故で死んでしまった。不倫相手も一緒にだ。

 ある日家のブザーが鳴る。使っていない古いブザーで、壊れているはずなのに鳴った。訪ねてきたのは、不倫相手の妻である……。

 これ以上書くとネタバレになるのでやめておくが、小池さんの美しいとぎ澄まされた文章が、じわりじわりとくる。それをたった1人の真夜中に読んだ私がバカだった。本当に眠れなくなってしまったのである。

 部屋のあかりをすべてつけていることも大きいかもしれない。早く睡魔よ来て、知らないうちに朝になって、と祈りながら目を閉じる。しかし体中(たいちゅう)がハリネズミのようになっていくのがわかる。耳が物音をとらえようとしているのだ。

 何も聞こえないけれど、何か聞こえたらどうしよう。人が静かに歩く音が聞こえたら……。ああ、やっぱりホテルに泊まればよかった。ホテル代をケチったばかりに、こんなめにあうなんて……。

 そして私はほとんど眠ることなく朝を迎えた。今日は重要な会議があるだけでなく、女性誌のインタビューも予定にある。寝不足がこたえて、肌がガサガサである。

 インタビュアーが問うた。

「長く結婚生活をしていくうえで、大切なことって何でしょうか」

「やはりお互いの存在が必要だと、確かめ合うことではないですかね」

「存在がですね」

「私なんか夫がいないと眠れない。やっぱり夫は必要かもしれないと思いますからねー」

 彼女は微笑した。

「ハヤシさん、よくご主人のこと書くけど、なんだかんだといっても仲よしなんですね」

「いや、そういうことじゃないんですが」

 昨日の今日だったので、ついこんなことを答えてしまった自分が口惜しい(くちおしい)。