室町ワンダーランド 第59回 清水 克行 2023/07/01
新しい地図記号
小学校の授業で、いろいろな地図記号を習った(ならった)。「⭗」は市役所、「文」は小・中学校、「卍」は寺院、「⛩」は神社などなど。試験に出るので、一生懸命覚えた人も多いだろう。ところが、それらのなかには、現在、もはや使われなくなっているものもあることをご存じだろうか。
たとえば、電報・電話局を表わす「〓」は、電電公社が民営化されNTTになったことで使われなくなった。民間企業をわざわざ地図記号で表わす必要はないという判断だろう。同じく桑畑(くわはた)を表わす「〓」も、現在では使われていない。かつては生糸生産(なまいとせいさん)は重要な国内産業だったが、いまやその規模は縮小し、そもそも桑畑自体にお目にかかることも無くなった。そうした社会の変化に応じて、地図記号も淘汰(とうた)されていくのだ。
一方、新たに生まれた地図記号もある。風車を表わす「〓」や、老人ホームを表わす「〓」は、いずれも2006年から新たに地図記号に加えられた。風車は新しい自然エネルギーとしての風力発電の普及にともなうもので、老人ホームは言うまでもなく高齢社会の到来を反映している(言われてみれば、最近、あちこちに老人ホームが増えてますよね)。
そして、さらに2019年からは、自然災害伝承碑を表わす「〓」の記号が新たに地図記号に加わった。自然災害伝承碑とは、過去に起きた大規模な自然災害の教訓を継承するために造られたモニュメントのことだ。それまでも史跡を表わす記号「⛬」や、記念碑を表わす記号「〓」は存在していたが、そのなかからあえて自然災害伝承碑を独自表記にしたのは、もちろん東日本大震災の影響が大きい。
それまで自然災害伝承碑は、研究者の間でもあまり注目されることは無かった。ところが、震災時、かつての災害規模が伝承碑の碑文で予見されていながら、その情報が市民に十分に共有されていなかったために被害を大きくしてしまった。その反省から、過去の災害の教訓を書き記した伝承碑の存在を広く市民に知らしめるため、先頃、地図記号として採用されるところとなったのだ。
現在、近い将来に起こりうる巨大地震として、もっとも心配されているのが南海トラフ地震だ。この地震が起きた場合、大阪市域の半分近くに津波が押し寄せ、多くの犠牲が出ることが予想されている。
南北朝時代の1361年旧暦6月に畿内で起った巨大地震(正平地震)も、南海トラフを震源とする地震と考えられている。このとき大坂を襲った大津波は、軍記物語である『太平記』にも、次のように詳細に描写されている(巻三十六)。
摂津国難波浦の沖が数百町(数㎢)にわたり半時(約1時間)ほど干あがって、無数の魚どもが砂の上にあえいでいるので、周辺の浦の漁民たちは網を片づけ、釣具を捨て、我先にと魚を拾っていた。すると、突然、大山のような潮が満ち来て、あたりは漫々とした海になったので、数百人の漁民たちは一人も生きて帰る者は無かった。
津波の前兆として引き潮が起ることは、よく知られている。このときもそれが起り、津波のメカニズムを知らない多くの漁民たちが、干あがった砂浜に魚取りに出かけ、被害に遭っている。この『太平記』の具体的な描写は、決して作者の創作とは思えない。実際の津波経験の伝聞などに基づいて書かれたものに違いないだろう。室町時代の人々も、こうした文学や史書などのメディアを通じて、被災の経験を語り伝える努力をそれなりに行っていたのだ。
ただし、書物は目に触れる階層も限られているから、そこにはおのずと限界もある。そのため後の時代には、もっと有効なかたちでの記憶の継承が求められることになる。
大阪市浪速区幸町3丁目の歩道の真ん中には、あたりのビル街に不似合いな古びた石碑が1つ立っている。『太平記』から約500年後、1854年旧暦11月に起きた地震(安政南海地震)による津波の伝承碑だ。
「大地震両川口津浪記」の碑。地震の翌年に建立 この石碑は地震の翌年に建てられたものだが、このときの地震と津波の実態と、その教訓が二面にわたってびっしりと刻まれている。そこには「大地震の節は津波が起らん事をかねて心得、必ず舟に乗るべからず」と、地震後の小舟での避難はかえって危険であるとの教訓や、「津波は沖より汐込むばかりにあらず。磯近き海底、川底等より吹き涌き、または海辺の新田・畑中に泥水あまた吹き上ぐる」と、液状化現象への注意も仔細に述べられている。
世代を超える記憶
しかも、末尾(まつび)には「願くば(ねがわくば)、心あらん人、年々文字読みやすきやう墨を入れたまふべし」と、将来、この碑文(ひぶん)が磨滅(まめつ)して読めなくならないよう、毎年、文字部分に墨を入れて読みやすくするようにと、子孫への指示までもが書き添えられている。
僕が撮影した上の石碑(せきひ)の写真をよく見てほしい。文字の窪んだところが黒く見えるだろう。石碑建立から100年以上が経過しているが、実際に地元の人たちは先人の教えを守り、今でも毎年地蔵盆に石碑の文字に墨を入れる作業を続けているのだ。
人の一生は、せいぜい7、80年。次に同規模の自然災害が起きるときまで、前の経験を語り継ぐのには限界がある。そこで昔の人々は、石碑というかたちで世代を超えた記憶の継承を図ったのだ。僕らは、こうした先人たちの叡智にもっと謙虚に目を向ける必要があるだろう。
自然災害伝承碑の所在は、国土地理院のHPで簡単に確認することができる。ご近所にはどんなものがあるか、ぜひ一度探してみてほしい。