ツチヤの口車 第1317回 土屋 賢二 2023/11/18
ライオンに嫌われた日々|土屋賢二
国が成熟するということはこういうことなのか。テレビではグルメ番組が隆盛(りゅうせい)をきわめ、女性誌には相変わらず、グルメ情報とダイエット情報が載っている。暖衣飽食(だんいほうしょく)の時代である。
わたし自身、若いころよりも運動量が圧倒的に少なく、食べる量は圧倒的に多い。いまや、腹を空かした(すかした)ライオンが好む体型である。ライオンはわたしのような霜降り肉を好まない(このまない)かもしれないが、骨付き皮よりも喜ぶだろう。
蚊(か)にも好かれそうだが、血液の健康には自信がないから、蚊が好むかどうか断言できない。わたしの血を吸った蚊が後で吐いているかもしれないし、糖尿病になっているかもしれない。
小学生のころは大違いだった。大人も子どももみんなやせこけていた。犬も猫もやせていた。太っていたのはたぶん寄生虫ぐらいだっただろう。
わたしは偏食だった(納豆、野菜、唐辛子(とうがらし)、アスファルト、硫酸、ジンクピリチオン、青酸カリなど、食べたことがないほど嫌いだった)。その上、わたしの家では栄養の知識も衛生観念も貧弱だったため、わたしの歯は虫歯だらけになり、トラコーマ(trachoma)という、発展途上国の子どもがかかる眼病(がんびょう)に何度もかかった。最近見かけない青っ洟(あおっぱな )の子は何人もいたが(栄養状態に関係しているらしい)、花粉症のことは一度も耳にしたことがない。ダイエットは話題にもならなかった。
朝は卵かけごはんや、味噌をおかずにごはんを食べていた。おいしく食べていたつもりだが、「食が細い」と言われた。顔色も悪く、家族から「青瓢箪(あおびょうたん)に屁(へ)をすり込んだようだ」と笑われ、深く傷ついていた。
好物は1年に1、2度食べるデパートの大食堂(だいしょくどう)の親子丼だった。それも虫歯が痛くてロクに味わえないことが多かった。
どれをとっても太る要素は皆無だから痩せこけて(やせこけて)いた。ライオンが見たら、歩くマッチ棒だと思っただろう。
大学に入ってもやせていたが、2点で違っていた。
(1)おいしい物がなかった。寮の食堂はまずく、5回に1回しか食べなかった。張り出された栄養素組成表(えいようそそせいひょう)では、どの栄養も不足していたから、毎食欠かさず食べたとしても、どうせ栄養は不足していた。栄養を支えたのは、夜、近所の定食屋でときどき食べたソーセージライスだったと思う。
当時はコンビニも自販機もない上に冷蔵庫もなく、夜はどの店も早々に閉まっていたから、深夜どんなに腹が減っても我慢するしかなかった。インスタントラーメンを買っても、電気コンロがなかった。夜中に食事の描写をした小説を読むと、空腹(くうふく)がこたえた。食べられるものなら枕でも食べただろう。
(2)当時のわたしは食べることを軽蔑していた。眠くなれば眠り、腹が減れば食べるという自然が強要する仕組みに従ってたまるかと、勝ち目のない喧嘩を売っていたのである。
そのため運動らしい運動もしていなかったが、マラソン選手のようにやせこけていた。腹をすかせたライオンが、わたしと1週間前に餓死(がし)した鹿を目にしたら、選択に迷っていただろう。そこへネズミが通りかかったらライオンはネズミを狙うだろう。もしネズミが通りかからなかったら、ライオンは餓死することを選ぶかもしれない。
昔と比べ、いまは天国だ(死んだという意味ではない)。食べるのが一日の楽しみにまでなっている。必要以上に食べるからダイエットが必要になり、失敗してはやけ食いする毎日だ。
わたしの住む老人ホームに飢えたライオンが来たら、わたしは入居者100人のうち3番目か4番目に食べられるだろう。