ツチヤの口車 第1310回 2023/09/30
ヒーローの闘い方
「法の支配」は民主主義の基本だ。実際、独裁者の気まぐれですべてが決まったらたまったものではない。だがわたしは子どものころ、法の支配を軽蔑していた。
あこがれのヒーローは、規則や法律に訴えたりせず、力ずくで正義を実現する。どこのヒーローが弱い者いじめをしている悪人(あくにん)に向かって、六法全書(ろっぽうぜんしょ)を開いて見せるだろうか。
敵は規則など鼻で笑う連中だ。ヒーローは月光仮面(げっこうかめん)や戦国武将のように、あるいはヤクザ映画やマカロニウェスタン( macaroni+ western) の主人公のように、力で闘うべきだ。
いまも「失礼だ」(礼儀という規則に反している)、「ズルい」(公平の原則に反している)などの感覚は希薄(きはく)だ。権力者の息子が優遇されていれば腹は立つが、「ズルい」とは感じない。女性店員が肉の多い方のカレーをイケメンの友人に出したら、腹は立っても「ズルい」とは思わない。不公平だとかズルいという観念が乏しいのだ。
知り合いの3歳の娘は、入園時の身体検査で名前を聞かれて回答を拒否したという。その理由は「見も知らない人が裸にした上、名前を聞くのは失礼だ」と憤慨したためらしい。
わずか3歳で礼儀という規則に反していると批判したのに対し、わたしはいまでも失礼の基準が分からない。名前を聞かれたら名前どころか、過去に犯した悪事(あくじ)から家族の秘密まで洗いざらい白状しただろう。
法や礼儀のような規則に訴えるのを嫌ったのと同じく、権威に頼ることもわたしは軽蔑していた。ヒーローは先生や親や司直(しちょく)に言いつけるようなことはせず、自力で闘う。規則や権威の後ろに隠れるのは卑劣だ。不当な扱いを受けても、どこかに泣きつくようなことはすべきではない。こう信じていた。まるでニーチェである。
だから大人に言いつけたことは5回しかない。
小学校のクラス会で、女子から「土屋くんは自分のことをワシと呼ぶのをやめてください」と告発されたことがある。賛同の声が女子から上がったが、わたしは一言も言い訳せず、雄々しく黙って耐えた。理由は、
(1)「ワシ」を禁じる規則があることを知らなかった。
(2)もっと明瞭に悪いことをしていた。
(3)女子も「うち」と言っていたが、「うち」が何かの規則に違反しているのか分からなかったため、反論できなかった。
大人の中にも卑劣な者がいた。小学生のころ、めったに車が通らない道路を黒塗りの車が走ってきた。珍しいので、もっていたプリントで車に触ったところ、烈火のごとく怒った中年の運転手が車を降り、わたしでなく車体に傷がついていないか仔細に点検した。
子ども心にこの男の本性が分かった。この男は、おろしたての純白のズボンにちょっと水がかかったとか、ちょっとラー油をこぼした、ちょっと墨汁(すみじる)をぶちまけたというだけで、血相をかえるような心の狭い男だ。いま思えば、家庭でも冷遇されていたはずだ(そう思う理由は、中年男はみんな家で冷遇されているからだ)。
男はさんざん怒鳴り、「親の名前を言え」と迫った。いい歳をして、親に言いつけるような卑怯な男だ。先生に言いつけてやろうかと思ったほどだ。
だが親の名前は明かせない。親に知られたら半殺しにされるからだ。市長か暴力団の組長の名前を言おうにも名前を知らない。道路横には広大な塩田が広がっており、塩田に降りて逃げると、塩田で働いている人たちの怒りを買う。罵声を浴びながら黙秘を貫いた。
成長したいま、盾になるものなら、権威でも規則でも老いでも病弱でも使いまくっている。わたしは成長したのだろうか?