ツチヤの口車 第1309回 土屋 賢二 2023/09/23

わたしはこうしてダマされなくなった

 歳をとるにつれてダマされなくなる。わたしも生まれつきダマされなかったわけではない。サンタクロースも鬼も人攫い(ひとさらい)も閻魔様えんまさま)も実在すると信じて疑わなかった。子どものころから詐欺師にダマされた回数は、自覚しているものだけでも両手に両足を加えても足りない(5件以上という意味ではない)。

 小学生のころ、校門の前で売っているインチキ商品にダマされていた。だが、簡単にはダマされない素質の萌芽はあった。

 たとえば中年のおっさん(年配の男性のぞんざいな呼称)が売っていた透視鏡(とうしきょう)だ。親指大の筒で、それを通して手を見ると、指の骨が透けて見える。電力も放射線も使わないのに骨が見え、スカートや服の中も見えるというノーベル賞級の商品である。それを10円ほどで売っているのだ。人類の英知の威力を目の当たりにしたわたしは一も二もなく買ったが、壊れたときのために2個買おうかと思ったのを、1個に抑える判断力はあった(20円で転売する知恵はなかった)。

 路上では色々な物を売っていた。たとえば白い粉を「画期的な接着剤」と称して売っていた。どんな物でもわずか6時間で強力にくっつくというのだ。石と石、石とスプーンなど強固(きょうこ)にくっついた見本が並べてある。こんな物をだれが信用するだろうか。1万円札を並べて「1円玉が6時間でこうなります」と言うようなものだ(6時間後にインチキだと分かったころ、販売人はもういない)。

 それを白昼堂々(はくちゅうどうどう)と売る神経も尋常ではないが、それ以上にそれを買う者の愚かさは尋常ではない。そこまで愚かな人間がいるのが信じられないだろうが、高校生にもなって、薄汚いおっさんが路上で売っている物を「人類の英知の結晶だ」と思って購入し、はやる気持ちで家に帰り、石をくっつけて6時間たつのをわたしは胸を躍らせて待っていたのである。

 だが大学を卒業したころから、判断力がつき、その上、哲学の道に入ったため、ダマされなくなった。哲学者は疑うのが商売だ。「これは自分の手だ」ということさえ疑う。

 妻は非哲学的である。むしろ反哲学的だ。かつて小渕恵三(おぶち けいぞう)首相が一般人に直接電話をかけていたころ(「ブッチホン」と呼ばれていた)、わたしの家にもブッチホンがかかってきた。そのとき電話に出た妻は「いたずらはやめてください!」と怒鳴り(どなり)、有無を言わさず切ったのである。

 反哲学的な妻でさえ、哲学者と一緒にいるだけでこれだけ疑い深くなる。

 わたしが哲学の道に入ると被害は激減した。それと同時に路上販売をめったに見かけなくなった。わたしのような得意客を失って経営が成り立たなくなったのであろう。

 わずかに残った路上販売で買ったのは五徳ナイフだ。ナイフがブリキ同然ということは新聞紙を切ってすぐに分かったが、付属のガラス切りの性能が判明するには時間がかかった。ガラスを切る機会がなかったからだ。やっとゴミ捨て場でガラスを見つけて試した結果、まったく切れないことが判明した。販売人の男は厚さ1センチの網入りガラスもやすやすと切ってみせ、「これだけでも1000円の値打ちはある」と断言していたから、試し切りをしなかったら宝物にしていたところだ。思い出すだに悔しいが、その後ガラスを切る機会が一度も訪れないのがせめてもの慰めである。

 路上販売を見かけなくなってからは、わずかに、車上販売で買った上下500円のスーツと、デパートで買った電動ミシンにダマされた程度だ。

 成長した現在、新種の透視鏡を路上で売っていても無視する自信は……ない。

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