ツチヤの口車 第1305回 土屋 賢二 mm2023/08/25
パソコンが壊れた
物が壊れるときは音がする。ガチャン、バリバリ、ドカン、グチャ、など、壊れた合図だ。
先日パソコンが壊れたときは何の合図もなかった。壊れた後も無音(むおと)だった。パソコンのスイッチを入れてもうんともすんとも言わない。もし「うん」か「すん」と言ったら、パソコンが新しい能力を習得したと喜び、高値(たかね)で売るところだ。
何かしら音が出れば、原因を特定しやすい(とくに「にゃー」とか「ツクツクボーシ」とか)。だが無音なので電源ケーブルが外れていないか、停電かどうかを確認し、サポートに電話する。指示通りにしたが、疲れた以外何の変化もない。
都合(つごう)の悪いことに、ちょうど原稿の締め切り日だ。昔使っていたラップトップパソコンを使う。キーの大きさが違うためタイプミスが多く、ふだんの3倍の時間がかかったが、文章の格調は低いままだ。
パソコンを買い替えるしかない。買い替えることに抵抗はなかった。わたしにはパソコンがマイコンと呼ばれていたころより前、マイコンの評価基板を買って研究したほどの使用歴がある。それから何台買ったか数知れない。この日壊れたパソコンは10年ほど使ったから替え時(かえどき)だ。
新しく買うパソコンがいつまでもつか、わたしの寿命との勝負だ。もっと歳をとったら新たにパソコンシステムを作るのは不可能になる。
だから慎重(しんちょう)に2日かけてパソコン販売店を選定し、3日かけてパソコンを選定した。数日後届いたパソコンは、驚くほど速かった。スイッチを入れたとたんに起動する。壊れてよかった。
だが大変なのはそこからだ。ソフトを入れる作業に何日もかかる。
ソフトをダウンロードして暗証番号を入れればいいのだが、順調にいくことはまずない。ソフトが更新されていたり、暗証番号が通らなかったり、ソフトの仕様が大きく変わるなどで、簡単にはいかない。人生で挫折(ざせつ)したことのない人はここで最初の挫折を味わう。
何とかソフトを入れると、最大の困難が待っている。ソフトの設定だ。文章を書くのに使うソフトでは、1行(いっこう)の文字数(もんじすう)、行間(ぎょうかん)、フォント、印刷の体裁など、多くのことを決めないと使い物にならない。設定の内容はファイルに保存してあるはずだが、保存場所はソフトによって違い、簡単には分からない設定を一から(いちから)やり直すには何十時間もかかる。まだ挫折していない人はここで挫折する。
過去これで苦しんできたが、わたしもバカではない。記録を残してある。だがその記録は壊れたパソコンの中だ。やっぱりバカなのか。
1週間ほどたつが、ソフトの設定はまだ終わっていない。サボっているわけではない。寝ても覚めて(さめて)もパソコンのことばかりだ。
たしかにいつものようにテレビを見てミステリを読んだが、それ以外には、大谷翔平(おおたに しょうへい)選手の出場試合(しゅつじょうしあい)と、藤井聡太(ふじい そうた)七冠の対局を観戦し、その後将棋解説(しょうぎかいせつ)の動画で研究した程度だ。それにマウスまで壊れたため、新品が届くまでの2日間休んだことは認めよう。だがそれ以外は、わき目もふらずコンピュータに没頭(ぼっとう)している。ライフワークにだけはしたくないのだ。
ただ、少しずつだが、着実に前進している。今日は、設定をいろいろ試しているうちに、ソフトが使えなくなり、ソフトを完全に取り除いて再導入すると、今度は暗証番号が通らなくなった。この経験から設定をやたらにいじらないようになった。大きい進歩だ。
これまでパソコンのおかげで時間と労力を節約できたと思うが、それで儲けた(もうけた)時間と労力をいま何倍にもして支払わされているような気がする。