ツチヤの口車 第1291回 土屋 賢二 2023/05/12
老人の連休
世の中は連休だ、リベンジ消費だと浮かれているが、老人ホームに浮かれた様子は微塵もない。ふだんと変わりない落ち着いた時間が淡々と流れている。歳を取ると落ち着きが出てくるのだ。以下は連休中の3日間の日記である。
【1日目】休みと言えば旅行だ。観光地はどうか。コロナ前、京都に行くと、街中が外国からの観光客であふれ、まるで台北かバンコクに来たようだった(台北にもバンコクにも行ったことがないが)。少しずつしか歩けない。ミロのヴィーナスが初めて日本に来たときも、モナリザが来たときも見に行ったが、「立ち止まらないでください」とせかされながら作品の前を通過するだけで、感動する暇もなかった。どうせじっくり見ても何の感動も得られなかっただろう。それが唯一の慰めだった。
歴史的建造物(けんぞうぶつ)や美術品を見て感動したためしがない。やはり景色を見るのがいい。歳のせいか、景色の素晴らしさはとてつもなく貴重に思える。子どものころは毎日のように丘の上から眼下に広がる瀬戸内海をながめていたが、とくに感動らしいものはなかった。何も考えず、広々とした景色をただ見ていた。それだけで30分は過ごしていたと思う。いまなら、ただ見るだけで30分過ごすことはとてもできない。スマホを見て「空白」を埋めるだろう。だが本当に「空白」なのだろうか。疑問の余地がある。
さらに考えた。街中の何でもない路地の風景も、自然の景観と同程度に貴重ではないのか。待てよ。それならこの散らかり放題の部屋の風景も同程度に貴重なはずだ。
こうして、旅行しなくても、部屋の中を見れば同じぐらい貴重なものが得られるという結論に達した。
【2日目】愕然(がくぜん)とした。総理との約束をすっかり忘れていた。あわてて調べると、やはり総理は幹事長と会談する約束だ。だが総理の約束を覚えて何になるのか。
記憶力の衰えを自覚して、何事も忘れまい忘れまいと思うあまり、余計なことまで覚えていた。バカだった。こんなことに費すほど記憶容量はない。もっと忘れよう。鎌倉幕府の成立が1192年というのも、最近異論が出ているらしい。不用な上に異論のある年号など忘れて記憶容量を増やそうとしたが、どうやっても忘れられない。
忘れようと努力するあまり、施設の人から介護について説明を受ける約束をしていたことを忘れていた。
平謝りして改めて説明を受ける日取りを決めた。一件落着とは言えないが、一応のけじめはついた。人生何事も、いい方にか、悪い方にか、とにかく何とかなるものだ。そんな当たり前のことを言い聞かせても、慰めにも励ましにもならないが、何となく落ち着いた気分になるから不思議だ。
夕食にラーメンを作り、おいしく食べていると突然、電話が鳴った(電話が鳴るのはいつも突然だ)。「今日は食堂の夕食を予約しておられますが、どうしますか?」という電話だ。予約してあるのをすっかり忘れていた。予約すると、食べても食べなくても、その分の料金を取られてしまう。やむなく食堂に行って、料理をタッパーに入れて持ち帰り、翌日食べようと冷蔵庫に入れる。それが終わったときにはラーメンはすっかりのびきっていた。
ベッドに入って、気が休まらない一日だったと振り返っているうちに、メールの返事を何日も出し忘れていることを思い出す。3通もある。力をふり絞って3通書き、やっと落ち着いた。
動揺の一日だった。今後記憶力の衰えとともに、動揺は大きくなるだろう。
【3日目】友人の追悼文の締切が昨日だったことをすっかり忘れていた。
- ひら-あやまり [3] 【平謝り】
- ただひたすらあやまること。「―にあやまる」