§2023-04-26
- 名称
- 二・二六事件慰霊像/ににろくじけんいれいぞう
- 所在地
- 東京都渋谷区宇田川町1-1
二・二六事件では、「反乱軍」となった陸軍の青年将校率いる部隊が総理大臣官邸、高橋是清大蔵大臣私邸、斎藤実内大臣の私邸、渡部教育総監私邸、鈴木侍従長官邸、各新聞社などを襲撃。 高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監・陸軍大将や、警備の巡査らが多数死傷しています。
反乱は鎮圧され、陸軍将校16名、そして反乱の背景にあった北一輝、西田税(にしだみつぎ)が死刑となっています。
事件の後、立憲主義が大きく揺るがされ、陸軍内では統制派の東条英機が台頭、結果としてファシズム(全体主義)の色濃い、東条内閣へと軍靴の足音が大きくなっていきました。
陸軍将校16名が処刑(銃殺)されたのが東京陸軍刑務所で、現在の渋谷税務署などの入る渋谷地方合同庁舎の建つ一角。
敷地の北西角に立つ観音像が、犠牲者と処刑者を弔って昭和40年2月26日に建立された二・二六事件慰霊像です。
今から約80年前の1936年2月26日、陸軍の青年将校等(せいねんしょうこうら)が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行しました。それが『二・二六事件』です。このとき高橋是清(たかはしこれきよ)、斎藤実(さいとうまこと)など首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲になりました。事件後に開かれた軍法会議では、「非公開、弁護士なし、一審のみ」で、刑が確定しました。主謀者の青年将校ら19名(20~30代)を中心に死刑となり、刑はすぐに執行(しっこう)されました。
この事件の背景にはいったい何があったのでしょうか。
実は、事件の起こる6年前、金輸出解禁と世界恐慌により、日本は深刻な不景気(昭和恐慌、しょうわきょうこう)に見舞われました。企業は次々と倒産し、町は失業者であふれました。さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は大変苦しく(農村恐慌)、自分の娘を女郎屋(じょろうや)に身売りする家もたくさん出てきました。
こうしたなか、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、また汚職事件(おしょくじけん)が続発しました。また不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥(ざいばつ)だけが肥え太る(こえふと・る )状況が生まれました。このため、人びとは政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部(とくに陸軍)に期待するようになりました。こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指すようになります。
実際、過激な計画や事件が続発していきます。クーデターによる軍部内閣の樹立を計画する陸軍青年将校を中心とする桜会、現役の犬養毅(いぬかいつよし)首相を暗殺(五・一五事件)した海軍青年将校、一人一殺を標榜(ひょうぼう)して財界人を殺害する右翼の血盟団(けつめいだん)などです。ちなみに、当時の陸軍には「統制派」(とうせいは)と「皇道派」(こうどうは)という2つの派閥がありました。「統制派」は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥です。彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えています。これに対して「皇道派」は、天皇親政を目指し、そのためには武力行使などを辞さない(じさない)一派です。
両派の対立は、「統制派」が勝利します。ところが1935年、「皇道派」を締め出した「統制派」のリーダーである永田鉄山(ながた てつざん)軍務局長を、「皇道派」の相沢三郎(あいざわ さぶろう)中佐が斬殺する『相沢事件』などがおきました。
これに、「皇道派」は大いに力を得て翌年、クーデターを決行したのです。
青年将校は天皇を中心とした新しい政治体制を築く『昭和維新』を掲げ、国内の状況を改善し、政治家と財閥の癒着の解消や不況の打破などを主張しました。
時の陸軍大臣も、「おまえたちの気持ちはよくわかる」といった訓示を出すなどして、事件を起こした青年将校の要求に沿うように見えましたが、思いもかけぬ誤算だったのは、「皇道派」が最も崇敬していた昭和天皇(しょうわてんのう)は、彼らを「賊徒」(ぞくと・政府に対する反逆者)と見なしたことでした。自分の重臣たちを殺されたことに、昭和天皇は激怒し、自ら早急な鎮圧を陸軍大臣に指示しました。
天皇が自ら軍に指示したことは極めて異例なことでした。
しかし、同士討ちを避けたい陸軍は、武力で反乱を鎮圧するのをためらいました。すると天皇は、「私が自ら軍を率いて平定する」とまで明言したといいます。ここにおいて、軍も本格的に動き出しました。アドバルーンをあげたり、ラジオ放送などによって、永田町一帯を陣取る反乱軍へ原隊への帰還を求めました。その結果、将校たちも観念して兵たちを原隊へと帰らせました。将校の二人は武力行使の責任をとって自決しましたが、その他の将校たちはこれらを「統制派」の陰謀と考え、『五・一五事件』、『相沢事件』と同じく、裁判闘争に訴えようと自決をやめ、宇田川町(現在の東京都渋谷区)の『陸軍刑務所』に収監されました。