2024年6月9日 5時00分
吉田ルイ子さんの信念
もしあの時、あの本に出会っていなかったら。そんな思いを抱く一冊がある。吉田ルイ子著『ハーレムの熱い日々』で、中学2年の夏休みに読んだ。1961年に渡米した吉田さんの10年間が凝縮(ぎょうしゅく)されている。優れたルポであり、青春の記録でもある▼留学先のコロンビア大大学院で出会った白人活動家と結婚し、ニューヨークの黒人居住区ハーレムの低所得団地に住んだ。ベトナム反戦や、黒人の差別撤廃)(てっぱい)を求める公民権運動が高まったころだ。やがて夫と別れ、フォトジャーナリスト(photojournalist)として独り立ちする▼激動の時代を黒人の目線で描いたのが新鮮で、「こんな日本人の女性がいるのか」と驚いたのを思い出す。吉田さんの講演にも足を運ぶうち、報道写真に興味がわいた。いつか私も外の世界を見て伝えたい、と思うようになった▼彼女の文や写真の魅力は、取材相手と築く信頼関係にある。アジアや中東などの紛争地でも、人々が心を開いてくれるまで待った。市場で働く女性や無心に遊ぶ子どもの姿が心に残る▼ベトナム戦争では苦い経験もあった。避難に疲れてしゃがみこんだ母親と熟睡する赤ちゃんの対比にひかれ、シャッターに手をかけた。その瞬間、母親は赤ちゃんの顔を手で覆って(おおって)隠した。撮れなかった自分を責めたが、後にあれで良かったのだと思い直したという▼吉田さんが89歳で亡くなった。「みんな同じ人間だ」とわかれば、差別や戦争は起きない。だから撮り続ける。その信念はずっと、揺らがなかった。
ハーレム Harlem ニューヨーク市マンハッタン区北部の黒人街。スラム化が著しい。