2024年8月27日 5時00分
疎開と避難
漂流6日目を迎えていた。沖縄から乗った疎開船(そかいせん)・対馬丸(つしままる)が米軍の攻撃で沈み、9歳の平良啓子(たいら けいこ)さんは筏(いかだ)の上にいた。10人ほどいた大人たちも、次々と力尽きていく。渇きと絶望。80年前のきょうである▼船は、学童や一般人1700人超を乗せて長崎へ向かっていた。生き残ったのは300人ほど。平良さんは7日目に、ようやく島へ漂着して命をとりとめた▼沖縄戦を前に、軍や政府が疎開を促したのはなぜか。本土の防波堤(ぼうはてい)たる島に民間人がいたら思い切ったいくさができぬ、というのが理由の一つだった。それでは、当時の「疎開」と、いま台湾有事を念頭に計画されている「避難」はどう違うのか▼そんな声が今月初め、石垣島(いしがきじま)での住民避難の説明会であったと地元紙が報じていた。発言したのは79歳の女性。有事になれば宮古・石垣(みやこ・いしがき)などの12万人はみな、九州・山口に移らされる。つまりは強制疎開ではないか、と女性の目には映るのだろう▼家を捨て、畑(はたけ)を捨て、墓(はか)を捨てる。ふるさとは戦場となり、戻れても元の風景はないかもしれない。かつて味わったような想定をまた突きつけられ、頭を抱える人がいる。そのことに心が痛む▼避難計画が無用だと言いたいのではない。だが政治家にまず求めたいのは、何としても戦争は起こさぬという決意である。肝心な(かんじんな)ところが最近揺らいではいないか。平良さんは88歳で亡くなるまで、疎開の記憶を語り続けた。避難の記憶を新たに語る。そんな未来を作ってはならない。
対馬丸での遭難について語る平良啓子さん=2019年4月14日、沖縄県大宜味村(おおぎみそん)、上遠野郷撮影
太平洋戦争中、米潜水艦の攻撃で沈没し学童784人を含む計1484人が犠牲になった疎開船「対馬丸(つしままる)」の生存者で、語り部(かたりべ)として長年証言を続けてきた平良啓子(たいら・けいこ)さんが29日、急性大動脈解離で死去した。88歳だった。葬儀は8月2日正午から沖縄県大宜味(おおぎみ)村喜如嘉(きじょか)232の2の大宜味村火葬場で。喪主は長男基(もと)さん。
9歳だった1944年8月、国の疎開方針に伴い沖縄から長崎に向かうため乗船した対馬丸が、鹿児島県のトカラ列島沖で米潜水艦の攻撃を受けて沈没。筏(いかだ)で6日間漂流した後、流れ着いた無人島で救助された。半年後に戻った沖縄で沖縄戦が始まると、避難生活を余儀なくされた。
戦後「命の大切さを教えたい」という強い思いから、小学校教諭(きょうゆ)となった。沈没事件には箝口令(かんこうれい)が敷かれ、戦後になっても語れない生存者がいるなか、平良さんは早くから語り部として体験を伝えた。84年には「海鳴りのレクイエム(ラテン•Requiem、安息) 『対馬丸そうなん』の友と生きる」を出版した。今年も各地を回り、「戦争は絶対に許されない」と改憲に反対する活動にも携わった。(棚橋咲月)