2024年8月6日 5時00分

父と暮せば

 原爆で亡くなった父が幽霊になって現れ、娘の恋の応援をする。井上ひさしさんの戯曲『父と暮せば』である。被爆から3年後の広島。あの朝、一瞬にして不条理な死が地を覆った。人は炭となり、助けを求める声はむなしく漂った▼娘は、火の海に父を置き去りにした罪悪感から、自らの恋心にふたをしている。「うち、おとったんと死なにゃならんかったんじゃ」▼一つの作品のために、井上さんは膨大な資料を集める。蔵書を公開している「遅筆堂文庫」には『広島県方言辞典』もあった。原爆で断ち切られた、あまたの暮らしを想像しながらマーカーを握ったのだろうか。父親=おとったん、太陽=おひいさん。何十カ所も線が引かれていた▼被爆者の手記は数百編も読んで、ノートに写したそうだ。「『これら切ない言葉よ、世界中に広がれ』と何百回となく呟(つぶや)きながら書いていました」。そうエッセーに残している▼初演は1994年。海外での公演も重ね、30年がたった。だが核廃絶への道のりは険しい。ゴールはむしろ遠のいたかに見える。井上さんはもういない。被爆体験を語れる人もわずかになった。でも歩き続けねば▼戯曲の最後で父は、自分の分まで生きろと娘を力づける。「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」。バトンを受け取ったのは娘であり、メディアで働く私であり、いまを生きる私たちである。セミが鳴く。語り継ぐべき広島原爆忌が来た。