2024年5月1日 5時00分

円安に悩む

 あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか――。わが永遠の青春小説、田中英光(たなか ひでみつ)の『オリンポスの果実(かじつ)』の有名な巻尾(かんび)の一文である。切ない初恋の物語は何度読んでも、胸を掻き毟る(かきむしる))ような気持ちにさせる▼時は1932年のこと。ロサンゼルス五輪に向かう日本選手団を乗せた客船が、小説の舞台だ。主人公はボート選手で、あだ名は大きな坂本こと大坂(ダイハン)。陸上選手の女性に思いを寄せている。その不格好な恋は90年の歳月を越え、いまの時代も色あせず、瑞々(みずみず)しい▼最近、再読(さいどく)すると、以前は気にならなかった部分に目がとまった。大坂が150ドル入りの財布を無くす場面だ。日本円に換算して、450円くらいとある。急激な円安が進む昨今だけに、思わず独りごちた。ううむ、当時は1ドルが3円だったか▼もちろん、単純な比較はできない。通貨の価値も異なる。ものの本によれば、当時の東京で、大工(だいく)の日当(にっとう)は2円。米国はといえば、大坂がハワイで買った赤いセーム革のノートは0・5ドルだった▼貨幣(かへい)とは、つくづく不思議なものである。時によって変化し、それが価値を生み出す。何をせずとも得する者がいれば、損をする人もいる。わが身をみれば、ああ、またもや円安による値上げかと、嘆息しきりの日々である▼〈かにかくに杏(あんず)の味のほろ苦く、舌にのこる初恋のこと〉。大坂が記した一節を唱え(となえ)、目を閉じる。あすをも分からぬ為替のことなどしばし忘れて、いつの世も変わらぬだろう何かを、思う。

セームがわ ―がは 3【セーム革】〔ドイツ Sämischleder から〕 小鹿の皮をなめした柔らかな革。ヒツジやヤギの皮をなめしたものもいう。シャミ革。