2024年5月29日 5時00分
気づかぬふりをする
程度の差こそあれ、私たちはみな、他人の痛みに気づかぬふりをして生きているのかもしれない。公開中の「関心領域」を観(み)て、急に怖くなった。アウシュビッツ収容所の所長だったルドルフ・ヘスの一家を描いたホロコースト映画だが、ユダヤ人虐殺のシーンは一切ない▼第2次世界大戦中、ナチス軍は収容所一帯を「関心領域」と呼んだ。プールや花壇を備えたヘスの邸宅は、域内どころか収容所とは壁を隔てた隣にあった。向こう側の煙突から黒煙が上るのが見え、悲鳴や銃声が聞こえる▼それでも一家は何事も起きていないかのように暮らす。囚人のものだった毛皮のコートを着て、ポケットに入っていた口紅までつける妻。金歯を集めて喜ぶ子どもたち。その無自覚さに「この人たちは怪物だ」と思いそうになる▼だが、ユダヤ系英国人のジョナサン・グレイザー監督は「普通の人間として描きたかった」と語っている。彼らは異常だからできた。私たちは普通なので、あれほどの惨事はもう二度と起きない。そう考えるのは間違いだと▼ヘスは敗戦後に捕まり、絞首刑となった。手記に所長時代の心境を書き残している。「ガス室や、火葬に立ち会っていると、しきりに妻や子供たちのことが思い出されてくるのだが、それが、眼前の光景にどうしても結びつかないのだ」▼壁の向こうに関心を持たない。叫びを聞き流す。何も考えない。どれも日常的にやっていそうだ。だが、壁はいつでも崩壊する。警告された気がする。