2024年2月10日 5時00分
小澤征爾さんと中国と
小澤征爾(おざわ せいじ、1935年9月1日 - 2024年2月6日))さんには、いまから20年ほど前だったか、北京でお会いしたことがある。ロッシーニの歌劇(かげき)「セビリアの理髪師(りはつし)」を中国の若者と公演するための訪中(ほうちゅう)だった。「中国の音楽の水準の上がり方はすごい」。驚きつつ、うれしそうだったのをよく覚えている▼旧満州国の時代の奉天(ほうてん)、いまの瀋陽(しんよう)で生まれた。「お袋が病気していて、僕のミルクは中国のおばさんからなんだ」。征爾の名は、関東軍の板垣征四郎(いたがき せいしろう)と石原莞爾(いしわら かんじ)からとったという▼だからだろう。隣国に特別な感情を持っていた。「中国で生まれて日本で育った僕」。そんな言い方もよくした。戦後、再訪(さいほう)した際は、日中戦争の悲惨な歴史を振り返り、ときに目を真っ赤にして指揮台に立っていたそうだ▼日本人にバッハが分かるのか――。彼が世界に飛び出したころ、欧米では差別や偏見が珍しくなかった。自分は何者なのか。どこから来たのか。根っこ探しのような意識が、中国への思いに重なった(かさなった)のかもしれない▼遠くから見れば、魔法のタクト(指揮棒、しきぼう)1本で、国籍を溶かし、国境(こっきょう)をひょいと飛び越えてしまうような「世界のオザワ」だった。でも、「欧州で生まれたクラシックを、東洋人はどのくらい理解できるのか。僕の一生はその実験だ」。静かにそう語っていた姿が、私には忘れられない▼個の結びつきを、大切にしていた。日中関係について、こんな言葉も残している。「大事なのは一人ひとり。政府よりも、普通の人がどう考えるかが一番大事。僕はそう思う」
「世界のオザワ」が逝った。指揮者の小澤征爾さんが心不全のため、6日に都内の自宅で亡くなったことが9日、分かった。88歳だった。
世界的な音楽指揮者の小澤征爾さんが亡くなりました。88歳でした。
事務所によりますと、小澤さんは6日、心不全のため都内自宅で亡くなりました。
葬儀は近親者ですでに執り行われたということです。 小澤さんは2010年に食道がんが見つかり、国内外の公演をすべてキャンセルして治療に専念し、7カ月後に公演に復帰しました。 小澤さんは1935年、現在の中国・瀋陽市に生まれ、高校生の時に指揮者の齋藤秀雄(さいとう ひでお)氏のもとで基礎を学びました。 1959年にフランスのブザンソン指揮者コンクールで第1位を獲得、ニューヨーク・フィルの副指揮者やサンフランシスコ交響楽団(こうきょうがくだん)の音楽監督などを経て1973年にボストン交響楽団の音楽監督に就任し、29年にわたって楽団の国際的な地位の向上に貢献しました。 日本においては1984年、恩師の齋藤秀雄氏を偲んで(しのんで)「サイトウ・キネン・オーケストラ」を組織し、長野県松本市で毎年、芸術祭を開催しています。 また、「小澤征爾音楽塾オーケストラ・プロジェクト」やスイスに音楽アカデミーを設立するなど、若い音楽家の育成に力を注ぎました。 小澤さんは2000年にアメリカのハーバード大学名誉博士号の称号を取得したほか、2008年に日本の文化勲章、2010年にはウィーン・フィルより日本人初となる名誉団員の称号を授与されるなど、数多くの功績を残しました。 後日、お別れ会を開く予定とのことです。