2024年7月13日 5時00分
引き際(ひきぎわ)の美学
一国の指導者として、理想的な引き際とは何か。私が見たなかで最もそれに近いのは、ニュージーランドの首相を務めたジョン・キー氏の辞任だ。8年前の記者会見で突然、「今が去るべき時だ」と表明した。当時55歳。3度の総選挙に勝ち、カリスマ的な人気があった▼投資会社の敏腕(びんわん)ディーラーとして巨万(きょまん)の富を築き、40歳で政界に転身。7年で首相まで上り詰めた。辞任会見での言葉が印象深い(いんしょうぶかい)。「長年(ながねん)、この決断に踏み切れない多くの指導者を見てきた。理由はわかる。辞めがたい仕事だからだ」▼貧しかった幼少時代(ようしょうじだい)から、「金持ち」と「首相」になるのが夢だったという。当時取材した側近の一人は「家族と過ごしたいと言いつつ、深く悩んでいた」と話した。夢を果たしたキー氏も、権力を手放す(てばなす)ことには迷いがあったか▼「私は進み続ける」。日本時間のきのう、バイデン米大統領は記者会見で、大統領選からの撤退を否定した。初めの方(はじめのほう)でハリス副大統領を「トランプ副大統領」と間違えた衝撃から、声の張りや言い間違いばかりに気を取られてしまった▼権力を手放す決断には、生き方や哲学、流儀、利害や愛憎など「全人格」が凝縮されるそうだ。日本では、「潔さ(いさぎよさ)」も重要な評価基準だという(塩田潮(しおだ しお)著『出処進退(しゅっしょしんたい)の研究』)▼どんなに辞めがたい仕事でも現実を直視し、未練なく去るのが理想か。バイデン氏は、続投したいのは「この仕事をやり遂げたい」からだとも繰り返した。引き際とは、かくも難しい。
ひきぎわ 【引き際】 ▸ 男は引き際⦅仕事を辞める時期⦆が大切だ A man must know when to quit [retire from] his job.
しゅっしょ 【出処】 出処進退 whether to stay in a position or resign.
記者会見の冒頭でバイデン氏は、カマラ・ハリス副大統領とドナルド・トランプ前大統領の名前を言い間違えた。その少し前に行われたウクライナへの支援を発表する会見では、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領とロシアのウラジーミル・プーチン大統領の名前も言い違えたが、これはその場ですぐに気づいて訂正した。